日々のこと 感じたこと

HSP/子育て中の私の備忘録です

とても汚い人

こんばんは。

夕方から雨がしとしとと降ってきました。

そして、とても冷え込んでいます。

雪になるかもしれません。


どうかみなさんが無事に家に帰れますように。




昨日の朝、結婚相手と、久しぶりに話らしい話をして、感じたことを前回書きました。


そして、まだ続きというか、伝えておきたいことがあるようなので、

こうして書いています。


彼と話をして感じたこと。


彼は、本人が気づいているのか、そこまで見えているのか、もはや私には

何の興味もありませんが、

ものすごく汚いやり方をする人です。


まず、自分の意見をちゃんと言いません。

(当初、私は気づいていませんでしたが)


大好きな言葉は、

「どうしようか?」です。




どうしようか?


どうしようか?


(ぐるぐる。ぐるぐる。)



「どうしようか?」おさじで、ただ、

状況をぐるぐるかき回しているだけです。


いつも。


(彼はそれを、相談、だと思っているようですが)


そして、「私」の意見をまず引き出します。


彼自身の気持ちや、意見は言いません。


そして、

「いいね!ではそうしよう」と、

いつもいつも、いつも、いつも、私の意見に乗ります。



だから私は、彼も同じ意見なんだ、と思って、

安心して、私が言った意見のように、事を進めます(私たちの意見なんだ、と思って)。



そして、その後。


何かあった時(大抵において、いざこざ)。


「あの時、君の言う通りにしてやっただろ?

なのに、なんで君は(そこをわかっていなくて、)文句を言うんだ?」

と言うのです。




………。


こっちにしてみたら、


え?

は?

の世界です。


いやいや、待って。

貴方、いいよ、って、あの時言ったよね?

どう思う?と聞いた時、それでいいね!って

言ったよね?

と、私はひとり、心の中で、ぐわーんと白目になります。



Facebookの「いいね!」に、

いいと思っていないのに、「いいね!」を

付けているの?

(私自身はFacebookをしていませんが。)


彼と話をしていると、

さっぱり真意がつかめません。


言葉の裏をかいたらいいの?


彼の言葉通りにこちらが受け取ると、後から泥だんごを投げつけられるの?



途中から、そんな訳わからない言葉の使い方をする人とは、

本気で関わらないようにした方がよさそうだ、と思い当たりました。


ただ彼は、責任を回避したいだけなんだなあ…とわかりました。


責任は、意見を言った、「私」の方。

俺は、(本心を隠して、もしくは、元々自分の意見など持たない人なのかもしれませんが)それに、(やむを得ず)賛同した方。





本当、笑えます。


なんだこりゃーと思います。



彼のやり方は。

頼んでもいないのに、

勝手にお布団を20枚ぐらい掛けてくれて、

(私は、え、お?ありがとう、別に要らないけれど、折角の好意なので…、と思っていると)


お布団20枚も掛けてやったのに、

文句言う?

不満があるって?


感謝のない、とんでもないやつだ、と喚き始めるのです。


(あーそうか、感謝の気持ちがないのは、こちらの方なのか…と思わせて、

でも、

それは、真綿のような、気づかないような、柔らかな支配だと感じます。)


(だから、見抜くのに、こんなにも時間がかかってしまったのでしょう)


なんでしょうか、これは。


マイルをあらかじめ貯めておいて、

彼自身が必要な時に、

どばっと、消費する、みたいな?



ごめんなさい。

なんですか、それ。


人間関係を損得勘定で、すべて計算している人、なのでしょう。


悲しいです。

可哀想な人です。


彼が配れるだけ、ごはんを配っておいて、

そうして、鳥かごの中に閉じ込めるようなやり方です。


でも、彼にとっては、人間関係とは、

(例え夫婦であっても)、

そういうものなのでしょう。


彼の、その損得勘定な人間関係に、

「いいね!」を付ける人と、やって下さい、と思います。


相手は私ではありません。


そして、私は、そんな扱いをされて、

ものすごい憤りを感じます。


だって。

自分を大切にしているから。


本当に大切に思う相手だったら、

自分の意見を言い、そして

相手も意見を言い、

そこでお互い、合致できる地点を見つけようとする、と思います。


本気の言葉を話してくれる人と、話をしたいです。

そして。

私を大切に思ってくれる方と、

世界を作っていきたいです。


それは、依存ではなくて、支配ではなくて、

対等であるということ。


優しいみなさん、どうぞお気をつけ下さい。

世界にはとんでもない輩がいるのです。


読んでくださってありがとうございます。


「愛」と支配

こんばんは。

お昼過ぎに、保育園から、5歳の娘の方がお熱です、との連絡があり、お迎えに行きました。


巷ではインフルエンザが流行っている?ようだし、念の為、小児科を受診しました。


もう少し熱の経過を見ないと、インフルエンザの検査ができないです、とのこと。

明日の朝まで、熱の経過を見て、上がったり、ぐったりしているようなら、再診して検査をしましょう、と。


ふーむ、ふーむ、そうなのか。


べろっと何か用紙のようなものを舐めたら、はい、インフルエンザ感染しています!とか、すぐに陽性か陰性か、が、わかるようになったら、もっといいのになあ、と思いました(リトマス試験紙のように)。


研究者の方、画期的な、且つ、瞬時にわかる何らかの方法をお待ちしております!



さて。さて。


エナジーバンパイアである結婚相手とのことを書いていきます。


普段、生活パターンが本当に全然違うので、同じ家に住んでいるけれど、ほとんど顔を合わせることがありません。


彼は完全に自分の仕事仕様の生活の仕方を。


私は、娘たちに合わせた、まあ朝方の生活を。


彼の帰宅時間は夜中です。

当然、夜ごはんや、お風呂に入る時間には家にはいません。

帰ってくるのは(私もちゃんとは把握していませんが)、いわゆる夜中です。


朝、私が起き、娘たちを起こす時間には、彼はお布団の中で寝ています。

朝ごはんの時も。


同じ家に住んでいながら、全然違う時間のパターンで生活しています。


完全なるワンオペ育児です。


結婚後、数年、悶々と葛藤した後、

今の私は、それでOKと思っています。


遠く、「突き放して」、いわゆる彼の愛、というものを眺めてみると、

それは精巧に作り上げた支配だと思います。


この「精巧さ」を見抜くまでに、随分と時間がかかってしまいました。


支配。


「仕事で忙しいんだ!」という免罪符のようなものを持って、彼は家を出ます。

彼の仕事は、いわゆる拘束時間の長い職業です。


OK、OK。


(でも、残念!

そう言っているけれど、彼は風俗に行っているのも私は知ってしまったし、彼の「忙しい」「仕事だから」に、もはや何の信用も持っていません)

 

そして、私が本当に助て欲しい!という時間、

彼は家に居ません。


私はその間、ひとりで必死になって、子育てをしています。


私の時間も奪われ、子育てに否応なしに必然的に縛られ、お給料をちゃんと持ってくるから、外で(バレなければ)何をしていてもいいよね、男は!という考えの人。


いやいやいやいやいや。

待って待って待って待って。


そんな男は要らないわ。

と、思います。


信頼できないし、信用もしていません。


私は時間的、そして、(彼の勝手に割り振った)役割的に、自由にさせないようにされている、と感じています。


一応、今は、彼の「忙しい」劇場に付き合っていますが、

私は水面下で、淡々と準備をしています。


完全に突き放して。



生活するお金をいただけて、ありがとうございます、と思いますが、

何度言っても、彼は、

子供が本当に必要としているお父さんをする気はなさそうだし、

結婚相手である、私の話を真剣に聞こうという気もなさそうです。


私は、お互いに、無理なくできる仕事をして、それで得られるお金で生活していけたら、それで問題ないと、思っていますし、子育ては、母親だけの仕事なんかではなくて、夫婦で協力してやって行きたい、と、彼にも伝えてきました。


子供には、お母さんと、そして、お父さんとも、過ごす時間は必要なんだよ、と。


1歳半の娘はまだ上手に話せないので、はっきりとはわかりませんが、

少なくとも5歳の娘は、

「生活を共にする」お父さんを、欲してます。

保育園どうだった?の会話やら、一緒にお風呂入ろうか?やら、寝る前に本を読んでくれる、やら。


相変わらず、彼は、

彼自身が信じて、見える世界を生きています。


男は仕事をする。お金さえ家に入れれば、外で何をしてもいい。

(バレていないと思っているようですが、大変!女子には第6感が備わっているのです!)

女は「その他」の、彼にしてみたら雑用をすればいい。

(子育て?洗濯?買い物?掃除?ゴミ出し?家計のやりくり?保育園での父母会の集まり?園行事?嫁ぎ先の家への気配り?)



ふー…。すごいなあ!

すごい世界観だなあ…と。



でも。

それでいいです。


ただ。

「私」の求めるものと、それは全然違うこと。

娘たちの求めるものと、それは全然違うこと。


それに気づくか、気づかないか、は、

彼の人生だし、彼の問題です。


それぐらい、突き放して、

彼を見ています。


私ができる、今できる、最大のことは、

それだけだと思っています。


突き放して、ただ、見ていること。

(見守る、ではないですね、見ている、だけです、そこにはもう期待なんてありません)


そして、同時に、淡々と、ここから脱出する気持ちを固め、準備をしています。


違う、違う、違う。


こんなことをする為に、私は生まれてきたわけではない。


こんな訳わからない人の、訳わからない「劇場」に付き合う為に、私は生まれてきたわけではない。

そう、強く感じます。


だから、私は、前を見て、

「自分の望む」状態を求めて進むのです。


彼は彼の見える正解を。

でも、私にも、私に見える正解があるのです。



読んでくださってありがとうございます。


私を強くする言葉

こんばんは。

何だかとっても冷たい風が吹く、寒い1日となりました。


私は寒いのが本当に苦手です。

冬って何のためにあるんだろう?と考えた時、

きっと、たぶん、

暖かい春がやって来たあの喜びをもっと感じるためなのかなあ、と思いました。


とっても寒くて、花も木も虫も縮こまっている冬があるからこそ、

空気がほどけて、花が咲いて、木も目を覚まし、虫たちが元気に動き回る(もちろん私たちも!)春が来た時の、あの嬉しさ。

あれを感じるためにも、冬はきっと、必要なのです。



さてさて。


私を強くする言葉。


「自分は誰かの期待に応えるために生きているわけじゃない」という言葉。


逆も然り。

誰かは私の期待に沿うために存在しているわけではないのです。


あとは、

「万人に好かれるなんて無理なことだよ」という言葉。


これでよかったのか…と、軽く自分に自信がなくなってしまった時、この言葉を思い出すと、

そうか、そうか。


そうだよね。そうだよね。


きっと、本当は、みんな、そうなんだよね、と思い出します。


みんな、本当は、奥底にある、自分の正解を生きていいこと。

そして、本当は、

互いの考え、生き方を尊重し合って、ぶつからずに生きて行けばいいこと。


でも、まだ世界はそこまで素敵ではないので、

考えを押し付けたり、強要させようとしたり、思い通りにならなくて、謎のイライラをぶつけたり、

そういう人たちも、残念ながら混ざって存在しています。


皆、それぞれの価値観で生きています。

いろんな考えがあって、いいと思います。


それは。

いろいろな段階の魂の学びの人たちが混ざった世界にいる、ということ。


ただ、奥の奥の奥の方の揺るぎない真理、みたいなものが、私は存在していると思います。


その真理のようなものを真っ直ぐに見て、そこからぶれずにいる、という選択をし続けることはできるのです。


誰かに届きますように。


読んでくださってありがとうございます。





迷いへの答え

こんにちは。

今日は曇りで、空は白くて、冬らしい1日になりそうです。

静かな白い1日です。


迷いへの答え。


自分の中で、少し自信がなかったり、

これでいいのかな、とか

どういうふうにとらえたり、考えて行ったらいいのかな、とか、

時々迷いの中にいることがあります。


以前の私は、結構な白黒な人で、

早く自分なりの答えが欲しい、と思っていました。

すぐに。すぐに。

その場で決めてしまいたい方でした。


「わからない」ということが、私にとっては、不安な気持ちを引き起こします。


だからこそ、早く答えを出したい。出してしまいたい、と思っていました。


でもいつからか。

自分の中に「わからないボックス」を置けるようになりました。


今は、そのことについて、わからないや。

自分に深く潜ってみても、自分なりの答えが見つけられないや。

これは、保留にしておいて、まあ、

ピカッと答えみたいなものが閃く時まで

待っていよう。

と。


曖昧さを受け入れられるようになってきたのかもしれませんし、

まあ、のんびり行きましょうぜ、と

思えるようになったのかもしれません。


でも、何かを「うーん、今はまだわからないや」にしておくと、

ある時、ちゃんと、それに対する

答えのようなものに、会うことができるのです。


それは、誰かのブログの内容だったり、

もしくは、寝て起きたら、

あ、答えが見えた!という朝がやって来たり。

(寝ている時は、神様のところへ行って、秘密会議をしているんですって!)


とても不思議です。


この世界は、偶然を装っているけれど、

すべては必然として、その人個人に降り注いでいる事柄ばかりなのです。


私が探していたことに対する、

答えを、この人のブログを読んでみよう、という閃きによって、

ちゃんと、私に見せてくれている、ということです。


もしくは、ふらーっと

本屋さんへ行ってみて、なーんとなく目に入った本の帯に書いてあったり。


誰かの口を借りて、その答えを教えてくれていたり。


そんなことの連続です。

なかなか、おもしろいです。


そして、あーあれに対する答えを、今こうして、見せてくれているんだ!とわかると、

むふふふ。

世界ってやっぱり、とっても優しいのね!

と嬉しくなります。


そして、迷いが消えて、またびゅんっと

先へ進める!

となるのです。


世界はおもしろいことになってきました。


読んでくださってありがとうございます。


身軽な5日間の後

こんにちは。

今日もよく晴れていますね。

子供たちをお迎えに行く時間、気づきました。

少しずつ、少しずつ、日が暮れるのが遅くなっていることに。


前までは真っ暗になっていた時間。

今は遠くの下の方でまだぎりぎり夕方をやっているのです。


はあ!どうしましょう。

まだ最後の難関である2月という1ヶ月が待っていますが、確実に

春が近づいている気配です。

嬉しいなあ!


さてさて。

結婚相手と娘たちの旅は終わって、

私の久しぶりの身軽さも同時に終わりました。


自由で、自分の予想以上に嬉しくて

本当に普段の自分のことが心配になってしまいました。


そして、うーむ、では、

この身軽な子供たちのいない5日を、

世界は何のために私に用意してくれたのだろう?と考えました。


いつもの子供たち込みの生活。

5日間という完全フリーな身軽な生活。


ここを比べてみました。

何が、どう、違うんだろう?と。

この重さと軽さの違いは何だろう?と。

身軽になってみて、初めてというか、改めてわかったことは何だろう?と。


そこで、ボンッと出てきたのは。


時間のこと、でした。


普段の私、しっかりと意識していなかったけれど、

「時間」の管理、というか、統括を負担に感じているんだなあと。

自由過ぎるくらいの娘たちをうまく束ねる、ということに。



5歳の娘、そして1歳半の娘。

かなりのマイペースです。

いや、1歳半の娘は、まだまだ自分でできることの方が少ないので、まだある程度、

私のコントロール可能圏にいます。


5歳の娘。

いやいや、すごいです。


保育園だからお着替えしようね!と声かけしても、放っておくと、本を読んでいたり、

朝から塗り絵を始めていたり…!

ヒーターの前でパジャマのままで寝転んでいたり。



夜、お風呂からあがって、

さあ、クリームも塗ったから、ぱぱっと

パジャマ着ちゃおうね!風邪ひいちゃうよ、と声かけしても、

放っておくと、裸で1歳の妹と遊んでいたり…!


頭がくらっとします。


時間の観念、って、私はどうやって、そしていつぐらいに身に付いたか、の記憶はありませんが、

なんというか、彼女は本当に奔放、というか、すごい揺るぎない自分のペースがある、のです。


彼女を見て、

子供には、時間の感覚、時間の観念というものが本当にないんだなあ、と

気づきました。


私は、自分が子供の頃…

母は当時珍しくフルタイムの正社員として働いていたので、

完全に親の都合、親のペースで

動かされていました。

そして、親に余裕がないので、

子供を時には叱り飛ばして(いや、一方的に怒って?)、私は親のラインに乗せられていた、というか。

ドタドタバタバタした毎日を送っていました(強制的に)。


それぐらい、当時の私は縛られていました。

時間ってなあに?はなくて、

時間は守らなくてはいけないもの、

時間管理できて当たり前、みたいな世界でした。


もともとの私は、結構なのんびり屋なので、

ピリピリした雰囲気の中、

しゅぱしゅぱっと動かなくてはいけないのは、

実はとても嫌でした。

(でも、当時は、自分の気持ちをうまく言い表す言葉も、スキルも持っていませんでした)


親にされてとても嫌だったこと。

これを自分の娘たちにはしない。

これが私の中に、信念として結構強くあります。


だからとても悩ましいのです。


娘の性格、キャラクター的に、マイペースなのだとしたら、

それをしっかりと受け止めたいと思います。

私にガリガリゴリゴリ言われても、

すぐに行動に移せない、のだとしたら、

彼女のそういうところも丸ごと受け止めます。


うんうん。

しかし。


この世界には、時間、という万人に共通の観念があるのです。


私個人が5歳の娘のスーパーマイペースを受け入れていた、として、

家の中では大きな問題はありません。

(私の頭から煙が出そうになりますが)


しかし、彼女が外の世界と一切接触しないで

生きていくことはできません。

一歩家を出たら、びゅんびゅんと目に見えない時間というものに乗った世界が展開されています。

(登園時間やら、歯医者さんの予約の時間やら、もう少し大きくなったら、宿題の提出期限、やら)


そして、私は、

娘のそのマイペースさを加味しつつも、

彼女と、世界の時間の観念とを繋げてあげる役目みたいなものがあるわけです。


怒鳴ったり、怯えさせたりしないで、

(母が私にしたように、ではなく)

うまく、時間というものを理解してもらうには。

時間という目に見えないけれど、

そういうものがあって、そこを無視しては、

この世界では生きていくことは

残念ながらできなくて。


もう少し、彼女が自分で時間を理解して、意識してくれたら、

私が声かけする回数も減らすことができるし

(本当の本当の私は、声かけするのも嫌なのです。自分で気づいて行動しようぜ、と思っています←最終の最終は)、

もっと楽しく毎日過ごせるよなあ、と。


そして、早速調べました。


アナログ時計を2つ用意して、ひとつは、模擬時計として利用する。

模擬時計の方は、終わらせたい時間にセットして、子供によく見せ、

本人には、実際の時間を示す時計と、その模擬時計を見比べて、時間の管理ができるように促す。



ふむふむ、できそう。


丁度よく、家の壁に掛かっている時計は全部アナログです。

そして、時計の読み方を教えるための、

画用紙でできた偽物時計もあります。


朝ごはんのシーンで。

今の時間はこうだから、こっちの画用紙の時計の長い針みたいに、あっちの時計の針が12になったら、

朝ごはんはおしまいにしようね、と。


うまく機能するかな?と試してみました。


娘は、それを始めてから、

ささっと動くようになってきているし、

自分で時計を見ながら、気にしながら、朝ごはんを食べるようになっています。

(彼女が時計を気にしているなんて!)


お着替えの時にも利用していますし、

お風呂の開始の時にも利用しています。


娘は、予定していた時間よりも、

早くお着替えが終えられた時、

「やったー!時計の方が負けだね」

と嬉しそうでした。


なるほど。

予定よりも早くできたら、時計の負け、なのか。

おもしろいなあ。


そうやって、少しずつでも、

時間管理というものに慣れてくれたらなあと思います。


一人目は、本当に試行錯誤の連続です。


そして、あの身軽な5日間があったからこそ、私が普段見えていなかった、

じんわりした負担と重さに気づくことができました。

どうしたら、もっと、軽く、楽しく毎日を過ごせるのか。


この模擬時計は続けてみます。


読んでくださってありがとうございます。




争わない生き方

こんにちは。

子供たちのいない身軽さの中に、

相変わらずいます。

朝起きて、空っぽの1日で、

さーて、何しようかなあ!

お天気もいいし、また散歩しちゃう?

と完全にフリーな状態。

思いつくままに、行動できる身軽さ。


でも。

昨日の夜、一瞬、

結婚相手が、独断で実家の方へ引越しする、とか

言い出したら

(私たちは建設的な話し合いというものができないのです)

きっと私は付いていかないし、

今の私には経済力が全然ないので

別れたとしたら、

自動的に子供たちと離されてしまう、という

恐ろしい考えが降ってきました。


でも、急いで頭を振って、そんな

恐ろしい考えを消し去りました。


危ない、危ない。

思考は現実化するので、楽しいことを

考えて、楽観的に生きていきましょう。

どうにか、なる!


大丈夫、大丈夫、神様はちゃんと見ていてくれるし。


さてさて。

争わない生き方。


まだまだ若い頃は、争ってばかりでした。

自分の価値観だけが正しいと思っていて、

どうにか相手の考えを変えてやろうと思っていたり、

この正しさを気づかせなくては、だったり。

論破してしまったり。


でも今は、それは間違っていたとわかります。


ずっとずっと前は、ひどく勘違いしていて、

私は、みんな、同じなんだ、と思い込んでいました。


でも。本当は。

みんな、みんな、みんな違っていて、

考えも、感覚も、何を大切として、生きているのか、も、心の傷も、嫌だったことも、嬉しいと感じることも、生い立ちも、みんな、

違っています。


時々、どこかの部分で似ているところが見つかったり、

同じような経験をしたことがあって、気持ちがわかる、というような

一瞬、嬉しくかする部分があっても、

全く同じ人はどこにもいない、という前提です。


それは、みんなが違っていてよし、という

ことが前提なのです。

私たちはみんな、形の違うもの◻︎やら△やら

○なのです。


(多分、みんな同じでなくてはいけないんだ、という価値観は、学校システムで強固にされてしまうのでしょうね)


だから、私が正しい、いやいや、僕の方が合っている、とか、

そもそもその見方自体に問題があるのです。


ある事柄に関して、

私はAと思っているけれど、

相手はDと思っている。

私がAと思うのは私の勝手だし、

相手がDと思っていることも、相手の勝手なのです。

それは、正しい、とか、合っている、とか、AをDに変えなくちゃ、とか、Dと思っている自分は間違っているのだろうか?とか

そういうことでは全くないのです。


ただ、そのままに。

AはAのままに。

DはDのままに。

静かに、そのままを、そのままに置いておく、というか。


本当は、私の奥の奥の方は、私に言い続けてくれていました。

こっちが正しい、君が間違っている、とかの価値観の綱引きみたいなのは無意味だし、

論破し終えた自分の中に、

虚しさ、というか、相手を変えさせてしまった、という少し苦い気持ちを

いつも私に感じさせていました。


あの頃は、きっと、自信がなくて、

自分の主張を通さないと、自分を保てなかったのだと思います。

無駄に口出しをして、相手の領域にも、

ずかずかと踏み込んでしまっていました。


そして、違う価値観を受け入れる、ということも、ちゃんとは理解できていませんでした。

自分(だけ)が正しい、と思い込んでいたので、

他の価値観の受け入れ方?そもそも

違う価値観を受け入れるってどういうこと?と混乱していました。


いつからか、私の中の小さなお盆がひっくり返って、

論破しよう、という自分から

相手が違っていても、それでいいんだ、という自分へと変わることができました。


執着していたのだと思います。


そして、同時に、ずっと前から、本当は争いたくない、という気持ちが自分の中にあることにも気づきました。


どっちが勝ちで、どっちが負けで、

どっちが正しくて、どっちが間違っている。

そんなこと、したくないし、

そんなの、もう、どうでもいい、と。


私も○だし、相手も○、

お互いをお互いの正解の中に、そのままに

置いておける地点、考え方を見つけよう、と。


結局は、ケンカ、とか、言い争いとかは、

この、価値観の綱引きをしているだけ、なんですよね。


綱引きをする見方から離れたら、

私も正解だし、相手も正解、

つまり、違う価値観を受け入れる

ということなんだ、とわかりました。


私がここまで行くのに、もうひとつ間違ってしまったことは。


自分の価値観を、相手のものと同じにしなくてはいけないんだ、と思ってしまったことです。

相手と同じでない自分がダメなんだから、

変えなくちゃ、と。

(すごい自分いじめですね)


でも、それも、ある時期が来たら、

ちゃんと、わかりました。


これだと、相手にとっては◎だけど、

自分がどんどん苦しくなるし、自分が消えていく、と。

 

私はヒツジで、相手はキリン。

ヒツジが毛皮を脱いで、肌を黄色くして、

茶色の模様をつけて、首を長くしてみても、

それは、違うのです。


ただ、ヒツジそのまま。私はヒツジ。

ただ、キリンそのまま。貴方はキリン。


(ずっと前は、違っているということさえも、とても悲しく感じていました。

多分、子供の頃から、ひどく、ひとりぼっちな感じがしていて、

どこかで、外側に、自分と全く同じ人がいて、自分をそっくりそのまま理解してくれる人が欲しい、いるはずだ!と、

思っていたのでしょうね)



同じでないこと、違っていることを、

ただ、そのままに

違っているんだなあ!と理解すること。


きっと、これが、違う価値観を受け入れる、ということなんだ、とわかりました。


心の奥底から聞こえていた、

争いたくない、という気持ち。


違っていることを、そのままに、

正誤は全く外して、見てみること。


違いがあるんだ、と、そのままに、ただ、認めること。


この見方ができるようになったら、

争う場面なんて全くないし、

みんなが、みんな、正解。

それぞれの正解を、それぞれ生きていれば、いいんじゃなーい?と。


私はそのまま。貴方もそのまま。

合うものは合う、し、

合わないものは合わない。

合う時は合うし、

合わない時は合わない。


合わないものに、合わせなくちゃ、なんて

思わなくていいし、

自分もそのまま。


こうして、少しずつ、少しずつ、

玉ねぎの薄皮をむくみたいに、

自分の不要な重い皮が剥がれて行っています。


読んでくださってありがとうございます。





久しぶりの身軽さ

こんにちは。

外はよく晴れています。

犬とゆっくりとお散歩をして来ました。


久しぶりの身軽さ、を体験中です。


昨日から、結婚相手と2人の娘たちは

彼の実家へ行きました。

5日間も!


もちろん、一緒に行くよね?的な流れがありましたが、

今の私の本音は、

これ以上彼の家族ごっこには付き合えないし、付き合いたくないし、

これまでのパターンを力強く変えてやろう、と思っているので、

行かない、という選択をしました。


彼には私の本音を伝えても、

理解できないとわかっているので、

(見ている世界、見えている世界が違うと、言葉も通じないことがよくわかってきました)

表向きは、

ちょっと今、疲れているし、こんな状態で

貴方の実家のワサワサ感に入って行く元気がないし(登場人物がとにかく多いのです)、

それに、(毎日のワンオペ育児だから)

子供たちともちょっと離れる時間が欲しい、と伝えました。

もちろんこれも、私の気持ちです。


そんなわけで、昨日から

12歳の犬と私だけの生活なのです。


子供から完全に離れる時間を取るのは、

実に3年ぶり?ぐらい。


いってらっしゃーいと彼らを送り出してから、いきなり

ふわっと身軽になりました。


もともと、ひとりでいることに、何の苦痛も感じないです。

むしろ、ひとりでいる時間を確保しないと、うまく世界が回らない方です。


普段、昼間は子供たちが保育園へ行っていると言えども、

朝のごはんのお支度をし、

子供たちを起こし、食べさせ、

洋服に着替えさせ、園まで送ります。


夕方には私がお迎えに行き、

夜ごはんのお支度をし、

お風呂を作り、娘たちをお風呂に入れ、

パジャマを着せて、お布団まで運び込む、ということをしています。


(さらーっと書くと、こんな感じですが。

2人の娘、それぞれの個性とペースと、考えがあるので、

それらも尊重しつつ、これらのことを進めるのは、

私にはとっても大変なのです)


プラス。

洗濯や掃除、お買い物、お皿を洗ったり、犬のお世話をしたり、ゴミ出しの心配もしなくてはいけません。


これを毎日毎日、ひとりでやらざるを得ない状況の中にいますが、

なんというか、

常に気を抜けない、というか、

ミニミニ部隊(娘たちと犬)を率いている隊長、みたいな

緊張感と責任感?みたいなものが

いつもいつもあるのです。


その緊張感と責任感からの解放!


毎日、私、よくやっているよ、と

自分を労いました。


とりあえず、自分で自分だけの面倒を見たらいいんだよね!という身軽さ。


お菓子をたくさん買ってきて、

DVDもゆっくりと時間を気にせず選んで、たくさん借りてきて、

ビールも用意して、

普段なら保育園のお迎えに行かなくてはいけない

時間にお風呂にゆっくりと

入り、自堕落な身軽さを楽しみました。


あまりの嬉しさに、

私は娘たちのことを愛していないのかしら?とも思いましたけど。


でもきっと。

こういう自堕落になれる身軽さは、

日常のスパイスみたいなものであって、

もしもこれが毎日のことだったら、

ここまでの嬉しさは感じられないのでしょう。


残りの時間、何をしようかなあ!と

わくわくしています。


読んでくださってありがとうございます。