日々のこと 感じたこと

HSP/子育て中の私の備忘録です

キャンプーーー!

こんばんは。

なんだかとっても蒸し暑い8月下旬ですね。

酷残暑。初めて聞く言葉ですが。

流れに乗って、でも、今年の夏はとってもとっても暑いので、

それの流れに乗って行きましょう。

 

この前の土曜日と日曜日、キャンプへ行ってきました。

大人になってから初めてのキャンプ。

いろいろな人の力が合わさって、そうして出来上がったキャンプ。

自分のできないところは、うまく誰かが補ってくれて、

みんなの得意なところをかき集めたら、

ちゃんと、うまく、すべてうまく行くようにできている。

そういうのを体感できました。

 

外は真っ暗で、木は高くて、人は小さくて。

緑の方が圧倒的に強くて、木の匂い。土の匂い。

虫の声と川の音。

 

こういうの、定期的に欲しいなぁと思いました。

 

車、とか、電車とか、テレビ、とか、電気、とか、

そういうのから離れて、大きな自然の中にぽつんと。

 

日常からすっかり離れて、頭はがらんとして、

とっても心地よいものとなりました。

人は本当はとっても小さくて、自然の方が本当はとっても強くて、

普段はそこに生かされているのに、

でも、自然をまるで支配しているようにしていること。

勝手に木を切ったり、汚したり。

おかまいなしにしているけれど、でも、それは、違う、間違っている、と

感じます。

 

もっと、もっと、上手に、共生できる方法を見つけられたら、と

思います。

 

自分の子供たちには、

虫を怖がったり、電気がない不便さや、トイレが遠い不便さを嘆くよりも、

こういうの、いいよね!って

思える子供に育ってくれたら、本当に嬉しいなぁって思いました。

 

いつもはプリキュアーとか騒いでいますが。

 

いざとなったら、自然の中でも、逞しく生き延びられるように。

何かあっても、ぎゃあぎゃあ騒がずに、さっと、

やるべきことを判断できる強さと、逞しさ。

 

真っ暗で、本能がむくむくと動き出して喜ぶ感じがしました。

 

また、行きたいです。

今日はさらっとしたブログになりました。

 

読んで下さってありがとうございます。

 

 

 

 

母のこと

こんにちは。

朝、子供たちを保育園へ送った時は、すごい風と多少の雨でしたが、

みるみる天気が回復してきました。

大きな被害なく、この台風が海へ抜けてくれたらいいですが。

 

今日は母のお話です。

私にとって、母はとても難しい人です。

これまで会って来た人の中で、多分、1位で、難しい人です。

友人とか、知り合い、とかだったら、

会わないようにする、とか、連絡を絶つという方法も取れますが、

母です。身内なので、絶縁もなかなか難しいし、

ちょっと、悲しい気持ちもします。

 

以前の私は、母とものすごく衝突していました。

 

普段、私は穏やかです。

 

でも、母の前にいると・・・・・どうしてでしょう。

甘えでしょうか、それとも、彼女の中に、私自身が許せていない自分を

投影していたからでしょうか。

とにかく、自動的に神経が尖ってしまって、自動的に緊張状態になってしまって、

「うわ、嫌だ」「・・・・ふぅ(落胆と我慢)」「うわ、またこれやっているわ」と

いちいち彼女の嫌なポイントを拾ってしまって、

とっても疲れていました。

 

不思議な感覚でした。

アンテナがびびびびびっと自動的に張ってしまって、

「嫌だ」と感じる言葉、行動、雰囲気など、全部拾ってきていました。

(でも、じっと我慢しています。気にしないように気にしないように。

でも、嫌だ、と感じる心は、感じるのをやめてくれません。)

 

小さい頃から押さえつけて来た感情。

HSPにはきつすぎる言葉の数々。

どうして・・・・・?と純粋に悲しくなる行動。

母が私に投げて来たいろんなものが、私の中に浮遊していました。

 

そして、ある一点を超えると・・・・・

おりゃーっと私は激変して、

母の前で、怒りの人に変身していました。

そうして、彼女を言葉で傷つけ、態度で傷つけ、自分も、激しい感情で

へとへとになっていました。

 

でも、今は。

どう感じているのでしょう。母のことを。

 

前までの私は

過敏だったなぁ、と客観的に見えます。

 

私は、母と、近づき過ぎると、疲れて良くない自分が出てきてしまう、ということは

学びました。

近づき過ぎると、そんなことしたくないのに、きつい言葉で

彼女を拒否してしまったり。とっても自分を傷つける行為です。

だから、遠くに、遠くに、います。

物理的距離感、というよりも、精神的距離感、というか。

母に対して、優しい自分でいられる距離感です。

恐らく、丸1日いたら、疲れてしまいます。

なので、多分、5、6時間、一緒に過ごすのが、適当だと、感じています。

実家だけど、泊まるのは、ちょっと厳しいです。

 

嫌いだ、と感じたり、(自分が言われたら)ひどく傷つく言葉を

誰かに投げつけたり、それはそれで、自分に対してもひどいダメージを与えます。

それは、自分で自分をいじめたり、苦しめる行為です。

 

母のことは、変えられません。

なので。

自分の対応を変えました。

自分の認識を変えました。

自分の限界を見積もりました。

 

自分も傷つかない地点。同時に、母のことも傷つけない地点。

 

前までは、母の嫌なところばかり、目についていました。

本当に嫌だ、と。本当に、嫌いだ、と。

身内じゃなかったら、あまり関わりたくない人だ、と。

 

でも、今は、少し、見方が変わってきました。

嫌いだ、憎いという気持ちは薄れて。

嫌いだ、憎い、という気持ちを持ち続けるのも、とてもエネルギーが要ります。

 

距離感のおかげ様、なのか。

彼女から教わったよかったことは何だろう?が少しずつ見えるようになりました。

小さい頃から、厳しくて、自分のことは自分でやりなさい、と

半ば放り投げ状態で育ってきました。

甘えたかった、気持ちを分かって欲しかった、という私のインナーチャイルド

恐らく、自分で癒せたかと思います。

 

主人とは生活の時間帯が合わないので、

今現在、ほとんど一人で家事育児をしています。

でも、これはきっと、小さい頃から母に

自分のことは自分でやりなさい、と鍛えらえて来たからこそ、

できるんだわ、とある時気づきました。

 

母はある意味、とても、厳しい魂の持ち主です。

人を頼ってはダメ、甘えないで、自分の足でしっかりと立ちなさい、と。

 

この言葉の意味、この言葉の感覚がわかるようになるまで、時間がかかりました。

それができるようになるまで、も、時間がかかりました。

(まだ自分でやれることはあると、目下感じていますが)

 

きっと、人に助けてもらってもいいよ、でも、常に常に、誰かの助けがあると

想定して(見込んで)、考えや行動を作って行くのはダメですよ、という意味です。

常に、誰かに助けてもらわなくてはいけない状態はダメですよ、ということです。

時々、助けてもらうことはあっても、あくまでもオプションで、

基本は、自分の足で立ちましょうね、と

いうことです。

 

とても高潔で厳しい教えです。

でも、きっと、そうなんだと今現在の私は感じます。

精神的に自立すること。

自分の足で立つこと。

自分の人生に責任を持つこと。

自分の蒔いた種は自分で最後まで刈り取る、ということ。

自分の力で、やれる範囲内で、すべてを展開させること。

 

とてもきつかったです。いや、今でもきついです。

でも、この考えをからだの奥に染み込ませたら。

 

人をあてにすることはなくなります。

人に期待することもなくなります。

何か起こった時に、自分の外側に原因を求めるのもなくなります。

怒ったり、イライラしたりすることはなくなって、

常に自分の改善点はどこかな?を探せるようになる、ということです。

どんどこ・どんどこ、最新版に自分をアップデートさせることができる、ということです。

 

そして。

母を見ていて、嫌だなぁ、そりゃないぜーと思う点。

それは反面教師として逆に利用させてもらうことにしました。

母にされて嫌だったことは、気を付けて、自分の子供にはしないようにします。

母を見ていて、そういうのって、どうなの?と感じるところは

そうしないように、戒めとして利用します。

 

母から得た、いいところも、悪いところも、

両方、利用させてもらいます。

そうして、ありがとうございます、と感じられるようになりました。

 

学びと気づきの日々です。

大変です。なかなかきついです。

時々頭がもげそうになります。

 

でも、きっと、私はこういうふうにしか、生きられないんだと思います。

今日はなんだかゴリゴリのまじめなお話になりました。

 

読んで下さってありがとうございます。

感性を応援する

こんにちは。

前回、前々回のブログでは

秋っぽくなりましたね、なんて書きましたが。

いやいや。まだまだ。

今日はもわーーんと蒸し暑い1日になりました。

でも。こういう暑い日は、冷たいビールが美味しすぎるし、好きです。

少し涼しくなって、半袖で寝るのはちょっと心許ないね、という夜も好きです。

 

さて。さて。

 

私には5歳の娘と1歳の娘がいます。

5歳の娘は、観察する限り、いわゆるHSCというやつです。

(私もHSCだったと思います)

 

だから、よくわかります。彼女のことが。

 

お布団が敷いてあると、自動的に嬉しくなって、げらげら笑いながら

大興奮するのや、

何か気に入ったものがあると、眠る時もそばに置いておきたいところや、

これが気に入っちゃった!となったら、もうどうしても欲しくなってしまうところやら。

 

あーうんうん、わかるよ、私も小さい時、同じだったわーって心の中で

うなずきます。

 

ぐにゃぐにゃのお肉(脂身)が嫌いなことや、きのこも食べられないこと、

生の魚も食べられないこと、朝は、ほとんど飲み物だけしか口にしないこと、

見ないでー!と言って、ひとりの世界に入り込んで遊ぶことがあること、

味や食べ物の匂いに敏感なこと、濡れた洋服は脱ぎたがること、

大勢の人の中にいた後は、ダウンタイムが必要なこと、

保育園に毎日通っていると、疲れと他のお友達の刺激が溜まってきてしまって

時々お休みしないとエネルギーが落ちてしまうこと・・・・・。

 

私が私自身の感性、感覚を丸ごと引き受けて、肯定できるようになったからこそ、

私とは別人格の娘の感覚も、大切に応援して、そのままを見守ってあげたいなぁと

感じるようになりました。

 

私はHSCやらHSPを理解しない親の元に生まれた分、

「遠回り」をした感がありますし。

 

 

この前のできごと。

5歳の娘と1歳の娘が、一緒に遊んでいました。

1歳の娘は、髪の毛を引っ張ったり、顔を手でパシンと叩いたりします。

(私の推測では、1歳の娘は、試しているんだなぁと思います。)

 

(1歳の娘は、前は私を相手にいろいろと試してきました。

髪の毛を引っ張ってみたり、爪でひっかいてみたり、顔をパシンとしたり、

二の腕を5ミリくらいつまんでみたり、おっぱいを飲んでいた頃は

乳首をぎーっとしてみたり)

 

そうやって、きっと、これをしたら、周りの人はどういう反応をするんだろう、

どういう顔をするんだろう、どういう声を出すんだろう、快?不快?

やっても大丈夫なこと?やったらダメそうなこと?と学んでいるんだなぁと

感じます。

 

5歳の娘は、1歳の妹に髪の毛を引っ張られていました。

そして5歳の娘は、私の方を見ながら

「〇〇ちゃん(妹の名前)、痛いよー」と言いました。

 

私の方を見ながら・・・・・

 

これはつまり・・・。

私(ママ)の感覚でジャッジして、ってこと?

 

それは違うと思いました。

だから、静かに伝えました。

「ママの方を見て言うんじゃなくて、〇〇(妹)に痛いよ、って教えてあげて。

〇〇(5歳の娘)が痛いよ、って感じるなら、それが正解なんだよ。

〇〇(5歳の娘)が嫌だ、とか、痛い、とか、止めて、とか思うなら、

それをママに(これであっている?と)確認するんじゃなくて、〇〇(5歳の娘)の感覚で〇〇(妹)に伝えたらいいんだよ」と。

 

いろんな感覚があります。

嫌だと思う人、嫌だと思わない人。

でも、嫌だと思っているのに、嫌だと思っちゃいけないんだ、と思わせたくないです。

だから、迷っているのに気づいたら、せっせと

娘の感覚を応援しています。

 

読んで下さってありがとうございます。

 

予告なしの発砲

こんばんは。

晴れて、風が強くて、空気が軽い1日でした。

少しずつ、秋に近づいている感じがします。

この感じ。

私は秋の運動会の日の朝、みたいな気持ちになります。

暑過ぎず、重過ぎず。空が高くて。

 

本当は、いつだって、世界はいつだって、こうして

いろいろな変化を見せてくれているのに、

忙しく生きているのを選択していたら。

全然気づきませんよね。1年を通して、咲く花に変化があったり、

木の葉っぱの色や量、空気の重さや、空の色や。

私はもう、ゆっくり生きることを選択します。これから先も。

 

予告なしの発砲。

おー怖い怖い。

撃ちますよーと言われずに、いきなりズキューーンと。

え、待って待って、避けられたかもしれないのに。隠れられたかもしれないのに。

 

予告なしの発砲とは。

私はよく、これを子供の頃に母親にされました。説明もなしに、いきなり、突然、怒られる。しかも感情的に!

「叱る」ではなくて、「怒る」です。

 

私は、幸か不幸か、子供の頃からの記憶がとっても残っています。

そして、親にされた、「なんだよこれ!」とか「うわ、酷い!」というもの

たくさん残っています。

 

そして、母親に予告なしの発砲をされた時の、小さな自分は、

「え、そんなのいきなり言われても知らないよ・・・・」

とびっくりしたり、怒っている母親の様子に恐怖心を覚えたのを

覚えています。

 

私が思うに。

叱る、というのは、落ち着いた心持ちで、相手を諭すという狙いがあるけれど

怒る、というのは、当人の感情の赴くままに、当人のものさしを相手に突如ふりかざす、ということだと思っています。

 

怒る、というものの怖い点は、

言っている内容云々よりも、「うわ!怒っている!」というびっくり感と恐怖が

先にやって来る点です。

言っている内容が、たとえ冷静に落ち着いて考えて、うんうん、正しいよね、と

思えることであっても。

心は、「びっくり」やら「恐怖」をまず先に、拾ってしまいます。

びっくりしたり、恐怖心を感じ取った心には、もう、その時に相手が言っている

「正しいであろう」話の内容なんて、入って来ません。

 

だから。

正しく、相手に伝える方法を考えなくてはいけないのです。

相手に、どうやったら、「びっくり」や「恐怖心」ではなくて、

「話の内容」を伝えらえるか、聞いてもらえるか、ということです。

 

①湧き上がった感情に身を任せて、うわーーーーーっと言う

これは、×です。相手には、残念ながら、恐怖心とびっくりしか与えられません。

 

②当人がわかっていることが世界のみんなが知っていることだと思って

話を進めること

これも×です。たいていの人はテレパシーは使えません。わかっていない、を

前提に話を進めるのが得策かと思われます。

 

 

私も。

自分の子供たちに何かを注意する時、

丁寧に落ち着いて話すことを心がけています。

予告なしに発砲されて、小さな頃の私は、すごく、びっくりしましたし、

恐怖心、を覚えましたから。

それは、しちゃいけないよなぁ、って思います。

 

話し方って、すごく、大切だよな、って思います。

「ちょっと!これやってよ(怒りながら)!」と

「えっと、これをやってもらえると、今、すごく助かるー!」と言うのと。

 

同じ「これをやって欲しい」という要望を伝えるのにも、

前者だと、そんなに怒って言わなくても・・・・・となってしまうけれど

後者だと、OK、と相手も気持ちよく手助けしよう、と思ってくれます。

 

私の反面教師・母、のお話でした。

読んでくださってありがとうございます。

無駄に傷つかない

こんにちは。

今日もよく晴れています。

風が強くて、空気が軽くなってきていて、

暑い暑い夏から、少しだけ、季節が進んできているなぁと感じます。

 

昨日の夜も、風がびゅうびゅう吹いていて。

寝ころびながら、カーテンがふわーんふわーんと揺れているのを

子供と眺めました。

静かで幸せな時間でした。

 

 

「無駄に傷つかない」

先程、お皿を洗っていて、ふと、浮かんだので、

それについて書いていこうと思います。

 

恥ずかしながら、私は、「自分」と「自分が好きになった人」の感覚は

違うんだ、とはっきり、ぱっきりとわかったのは、

結構大人になってからです。

どうしてか、なぜか、私の見ているままに、隣にいる彼も見ている、と

信じていたし、

私の感じるままに、隣にいる彼も感じているはずだ、と

強く信じていました。

だから、もっと若い頃は、自分の感じるものを、見えているものを、

一番近しい人(彼、だったり、今なら主人)と分かち合いたい、という気持ちが

強かったです。

わかって欲しい、わかって欲しい、と強く、思っていました。

 

多分。

小さい頃から、今思うと、HSP感丸出しの感性だったので、

父や母、姉(当時の一番近しい人たち)とは、何かが違う、と感じていました。

だから、自分が好きになる人には、それまでわかってもらえなかった分、

強烈に「私をわかってーーーー!」という気持ちをぶつけてしまっていました。

 

今なら、これって

甘えだよなぁ、ってよく、わかります。

 

 

「私」と全く同じ感性の人は、きっといないと思います。

私の完全コピーは、世界中どこを探してもいません。

それは、個々の人間、みんなに言えることだと思います。

みんながみんな、それぞれで、全員、違っている、のです。

 

「私」の感覚、感性を、そのままにわかってくれるはずだ、と

信じていたからこそ、無駄に傷ついていたんだ、と今ならわかります。

 

ひゅーーっと世界を遠くに見て。引いて、引いて見て。

あ、そうか、例え自分が好きになった人であっても、

自分の完全コピーではないし、

「私の感じるもの、見えるもの」と「彼の感じるもの、見えるもの」は

全然、違うんだ、と、遅ればせながら、ある時気づきました。

 

美術館へ一緒に行って、隣に立って、同じ絵を見ていても。

同じ絵を見ていても、人それぞれ、見ている部分は違うし、

感じるものも違うし、印象に残るものも、違うんだ、ということです。

私は木を。彼は空の雲を。いいね、と思う作品も。

 

これに気づくまでに、これまた大変な時間を要しました。

 

「自分は自分」「(一般的な)人は人」とよくわかっていましたが、

「自分は自分」「自分の好きな人は自分の好きな人(ありのままのその人)」という

のが、うまくわかれなくて、境界線がぐちゃぐちゃで、

どうして、わかってくれないの?どうして、そんな傷つくことするの?と

なっていました。

 

でも、違いますね。

例え、自分が好きになった人であっても、どこかが自分と溶け合っている、なんて

ことはないんです。

私は、感性・感覚が溶け合っているはずだ、と勝手に、信じていただけでした。

 

「誰かにわかって欲しい」「この感じ、この気持ちをそっくりそのまま知って欲しい」

と思っていたら、無駄に傷つくだけです。

いいんです。外に求めなくても。

きっと、「自分」がちゃんと「自分」の気持ちをわかって、知ってあげれば、

いいんです。

 

境界線を引く。

これって、知らなかったけど、大切だなぁって思います。

私は、これは嫌だと感じるけど、貴方は、これは嫌だと感じないんだね。ふむふむ。

これで、終わりです。お互いの感覚を尊重します。

 

貴方はどうして、これを(私と同じように)嫌だと感じないの?と

やり始めたら、

自分の感性、感覚が世界の絶対であると信じていて、そう感じないのはおかしい!と

価値観を強要しているだけ、なんですよね。

 

それに。

逆のことだってもちろんあり得ます。

私の感覚が彼を傷つける。

傷つくのは自分だけ、ではないのです。

自分が、傷つけてしまうことだって、あるのです。

 

感性、感覚、みんなそれぞれなんです。

みんな、違っているんです。

 

これをちゃんと理解できるようになってから。

私は、完全にひとりで、誰とも違っていて、個の種(しゅ)なんだ、と

うーん、意識がぴしっと立つ、というか、からだの中に一本、柱が立ったみたいな

気持ちになりました。

 

みんな、みんな、みんな、みんな、違う。

 

だからこそ。

共通点が見つかったり、あ、似ている部分がある!とわかった時、

強く嬉しいなぁ!って感じられるようになりました。

 

ずっと昔。

自分と何もかも、ぴしっと合う人がいるはずだ、と信じていました。

でもきっと。

この部分はこの人と、こっちの部分はあの人と、これはこの人と、

分かち合えそうだな・・・・、とすればいいんだと思います。

ひとりですべてを賄うことはできない、のです。

 

そして、傷つくのは自分だけではなくて、自分も誰かを傷つける

可能性があるのだ、と知っておくこと。

 

 

読んで下さってありがとうございます。

 

自分だけ会議――イライラ

こんにちは。

昨日は午後からみるみる灰色の雲になって

そうして、雷ショーでした。

雷。世界はすごいことできるなぁって思います。

違う気圧の混ざったところで、ああしてびりびりびりーっと

電気を走らせることができるなんて。

あのドーーーーンという音も。

すごいなぁ。詳しくは調べていませんが、あのドーーーンの正体がわからないので

調べてみましょう。

今日もどうやら天気が変わりやすいようですね。

 

イライラする。

不平を言う。

不満を持つ。

文句を言う。

 

私を怒らせないで。私をイライラさせないで。

 

前、こういうふうに思っていました。

私の「周り」が、私をイライラさせる。

私の周りのできごとが、誰かが、私をイライラさせる。

うんざり。もうやめて。何なの一体!

なんで周りはこんなに嫌がらせばっかりするの?

 

でも。

どうやら違いました。周り、が悪いのではなかったのです。

 

イライラフィルターがかかっていたのは、私の心でした。

 

同じできごとでも、イライラする人と、イライラしない人がいますよね。

例えば、電車が何かで遅れています。

うわー遅延とか最悪。予定に遅れちゃう。ふっざけんなー!という反応をする人。

(私の母です)

 

もしくは。

うーむ、仕方ない・・・・。のんびり行きましょう。

私、だけでなくて、今電車に乗りたいみんなが受けている影響だからね。

こんな時もあるさ!という反応をする人。

(読書がはかどっちゃうわ!とか、たまにはこうして、ぼーっとするのもいいよね!

とか、あっという間に視点をいい方へ変えられる人)

(私の父です)

 

イライラする心ってどういう心だろう、と考えてみました。

何かに対して、こうであるべき、と硬固に信じていること、とか

(気づいていないけれど)「自分」のルールから外れていること、とか

世界の中心は「俺様」「わたくし」に見えてしまっている、とか

そういうことではないかな、と思います。

 

 

こうであるべき、っていつから、どうやって身についたことなのでしょうか。

どうして、こうであるべき、と思っているのでしょう。

「自分」のルールって広くあまねく皆に知られたこと、なのでしょうか。

これらは、とっても個人的なこと、なんですよね。

(これに気づけるまで、一体どれだけの時間がかかったことか・・・・)

 

自分ひとりで生きているのなら、それでもいいです。

ジャングルの中で、自分の力だけで、誰の助けも借りずに生きているのなら

「俺様」でも「わたくし」でも、いいと思います。

 

でも。

そういう人は、とっても少ないと思います。

私は日本語でこの文章を書いているので、

これを読んで下さる方は、恐らく日本に住んでいる方、外国に住んでいる日本人の方、もしくは、

日本語がわかる、文化のある世界に暮らしていらっしゃる方、だと思います。

 

周りには、ぐるっとたくさんの人がいると思います。

ご家族、お友達、会社の同僚、学校の方、立ち寄るコンビニの店員さん、

配達をしてくださる方、スーパーの店員さん、郵便局の方、いろいろです。

「自分」だけではなくて、たくさんの人の力を借りて、

普通に生活をしていらっしゃる方たちだと思います。

(たくさんの人の力を借りられるからこそ、「普通」の生活ができる、ってことです)

 

周りにいる人に、あくまでも「個人的な」「自分だけ」のものさしを

ふりかざして、

うわー最悪、とか、ふざけるな、とか、なんでこうなの?とか

あらゆる不平・不満をぶつけている、ということなんですね。

 

バーーーッと視点を遠くに、もしくは、高いところから見てみたら、

イライラする、文句を言うってとても幼いこと、なんですよね。

(過去に、何度も、文句が多いよね、とか、不平とか愚痴ばっかりだよね、と

言われたのを思い出しました・・・・・)

 

でも。逆手にとって。

イライラするわーっていう時、落ち着いて、自分の心に聞いてみたらいいです。

「何、に、イラっとした?」

「今、なんか、怒っているよね?でもどうして?」と。

自分だけ会議です。秘密の自分だけ会議です。

 

そうすると、ちゃんと、教えてくれると思います。

「電車が遅れたから、イライラしている」

「子供が片づけないから、イラーッとしている」

「店員がオーダーを聞き間違えて、頼んでいないものを持ってきたから」

「時間がないのに、ATMですごい行列になっているから」

「洗濯物をせっかく干したのに、雨に降られてびしょ濡れになっちゃったから」 

 

そうして、ひとつひとつ、丁寧に見ていきます。

「うんうん、電車は時間の狂いなく来なくちゃダメだ、と思っているわけね?」

「部屋はきれいでなくちゃ嫌だ、とかきれいであるべき、って思っているわけね?」

「聞き間違えをしたから、機嫌が悪くなっちゃったわけね?」

「自分に時間がない時に、待たないといけない状況だから、もーー!ってなったのね?」

「自分の都合の悪いタイミングで雨が降ったから怒っているのね?」

 

この作業をしていくと、

自分の心を客観的に見てみる、という体験ができます。

あー、私って、こんなふうに考えていたんだーと。

ぱーーんと突き放して、「自分」というものがどういうものの

考え方をしているのか、見えてきます。

 

何かが、誰かが、「自分のルール」を犯したから、

イラっと、「反応」したわけです。

 

つまり。

イラっと反応した時こそ、自分でも気づけていない「自分のルール」の

存在に気づくことのできるチャンス、ということです。

「個人的なこと」「自分だけのものさし」、の存在に、です。

 

私はこんなふうに、イライラを利用しました。

人に厳しい、完璧主義、とんでもないわたくし目線、自分の思い通りにしたい気持ち、

自分を変えるのではなくて、周りを変えたいと思う気持ち、

恐らく小さい時に親から禁止されたり、罰せられたこと、自分の容量以上のことを

やらないといけないんだ、と信じ切っていたこと、などなど。

恐ろしい自分がわんさか出てきました。

 

今でも、時々自分だけ会議、やっています。

心の中で。

あー待って待って、今、何でイラっとしているんだろう?と。

 

だいぶ掃除は終わってきた感じはしますが。

でも。

もともとの自分の心に戻る大切な作業です。

 

読んで下さってありがとうございます。

 

 

経験を奪わない

こんにちは。

蒸し暑い土曜日になりました。

1時間くらい前、私の家のあたりでは雷が鳴って、

雨がばーっと降っていましたが、

今は日が差しています。

もんわりと苦しいくらいの湿度です。

 

さてさて。

今は2人の娘を育てている最中です。

5歳の長女と1歳の次女。

5歳の長女は、心根が優しくて、大胆と繊細が混ざっていて、

そして警察官みたいに正義感が強いです。

1歳の次女は、まだまだわかりませんが、

抱っこしてると、仏様みたいに穏やかな気持ちになります。

胸のあたりがいつもぞわぞわします。不思議な子です。

そしていつもニコニコしている子です。

彼女も、大胆さと繊細さが混ざっているように感じます。

 

長女が生まれた時。

それまでの私は「自分のやりたいこと」、の道をしっかりと作るのに

精一杯で、それはもう、「自分」「自分」・・・・。

「自分」のことばかり考えていました。

そしてなぜかわかりませんが、自分が「女」で「妊娠」できる、と

思っていなかったので、

(男だ、とか、女だ、とか、あまり意識しないで生きていたってことです)

妊娠した時は、え?わ、私が?妊娠?と、本当にびっくりした、というか、

軽くショックだった、というか。

(自分が保育園の頃、図鑑で頭蓋骨を初めて見た時。

自分の目の周りを触ってみて、その図鑑の頭蓋骨と同じように、

自分の目の周りにもくぼみがあるのを知って、自分は人間なんだ…とすごくショックだった時と

似ていました)

 

そんなこんなで、長女が生まれた時は、

「これまでと同じようには生きられない(自分のやりたいことだけ考えていればいいのは終わった)」というのと

「この異星人の面倒を私がしっかりと見なくてはいけない現実」と

「こんな私をお母さんと思って生まれてきてくれた長女に対して少し申し訳ない気持ち」と

「これまでまるでやったことのない、お母さん業ということへの強烈な不安」と

「(日本に帰国したばかりだったので)日本の生活とやらに慣れなくてはいけない不安」と、

もう様々な気持ちが入り混じって、

正直に、赤ちゃんが来たー!嬉しい!!よりも、

とんでもないことになってしまった的な気持ちの方が強かったです。

 

長女の子育ては、大変でした。

いや、「私」は大変でした。

 

あの「これまでの自分じゃダメだ」「太刀打ちできん」「変わらなくちゃ、この先

やっていけない」と、切羽詰まった状態で、

赤子を育てるのと、自分の心を(自分の中を)見つめ直して、改修していくのと、

同時プレーで、とんでもなく大変でした。

でも、すごく鍛えられて、鍛えられて、あの頃よりは、とても

良い状態の自分になれたと感じています。

お母さんになれて、よかった、と感じています。

 

そして、今度は2番目の子が生まれました。

長女の時で、相当鍛えられたので、次女に関しては、

ものすごく余裕がありました。

赤ちゃん、ってどういうもの、というのも、長女の時に知ることができましたし、

嬉しいなぁ、可愛いなぁ、と笑いながら、子育てできています。

 

そして、余裕がなさ過ぎた長女の子育てでは見えなかったこと。

私が見切れなかったこと、です。

 

「経験を奪わない」

 

転んだら危ないから、すぐに支える。

犬が噛むかもしれないから、犬からすぐに遠ざける。

高いところから落ちてしまうかもしれないから、すぐに抱き上げる。

 

でもきっと、違うなって、ある時感じました。

赤ちゃんはすごいです。大人よりも、もっともっとすごいです。

大人は世の中に揉まれてしまっている分、動物的な勘というか、本能、というか

生き延びるための逞しさ、みたいなものが、赤ちゃんよりも弱まっているのかもしれない、と、ある時、閃きました。

赤ちゃんは、吸啜反応(おっぱいをちゅうちゅうする=生きるために乳を吸う)や

自分の体重を支えられるくらいの握力があったり(これもきっと、落ちてケガをするのを避ける働きと思います)

身を守ること、危険を回避すること、にかけての勘のようなものは、きっと大人よりも強いんだ、と感じました。

 

だから、私は、私の主観、経験上得た知識からの「危ないよ!」を

しないようにしてみよう、と思いました。

 

危ないからやらせない、危ないとお母さんが思うから、子供に禁止する。

でも、きっとそれでは、子は逞しく育ちません。

やってみる、ゴチンと頭をぶつける

→あーこういうやり方だと、痛いんだな、と子供自身が、自力で学ぶ。

 

赤ちゃんが、子供が、まずは、経験をしてみる。

からだのバランスだったり、からだの使い方だったり。

痛い思いをしたり、泣いたり。

そうしてみて、自分の経験で学ぶこと、が大切なのでは、と考えるようになりました。

 

だから、私は、やらせます。

やってみたらいいよ、と思って。

私の役目は、何が起こっても、いいよ、と見守ること、です。

見守る=何が起こってもちゃんと責任を取る、です。

 

やらせてみて、転んで、泣いたら、そうだよね、痛かったよね、こうすると、

転んで痛くて泣いちゃうよね、と経過を見守って、結果に同意することです。

 

子供の感情と横並びになってあげることです。

一緒になって、痛かったよね、と感じてあげること。

次女が2本足で立てるようになって。

嬉しいね、嬉しいね。立てるようになっちゃったね、と、一緒に喜ぶこと。

 

そうやって、子供の気持ちに寄り添ったり、見守ったり。

とても幸せな時間だなぁと感じます。

 

大切な子供たちが、自分たちの感覚、経験を頼りに、逞しく

生きてくれたら、とっても嬉しいです。

 

読んで下さってありがとうございます。