経験を奪わない
こんにちは。
蒸し暑い土曜日になりました。
1時間くらい前、私の家のあたりでは雷が鳴って、
雨がばーっと降っていましたが、
今は日が差しています。
もんわりと苦しいくらいの湿度です。
さてさて。
今は2人の娘を育てている最中です。
5歳の長女と1歳の次女。
5歳の長女は、心根が優しくて、大胆と繊細が混ざっていて、
そして警察官みたいに正義感が強いです。
1歳の次女は、まだまだわかりませんが、
抱っこしてると、仏様みたいに穏やかな気持ちになります。
胸のあたりがいつもぞわぞわします。不思議な子です。
そしていつもニコニコしている子です。
彼女も、大胆さと繊細さが混ざっているように感じます。
長女が生まれた時。
それまでの私は「自分のやりたいこと」、の道をしっかりと作るのに
精一杯で、それはもう、「自分」「自分」・・・・。
「自分」のことばかり考えていました。
そしてなぜかわかりませんが、自分が「女」で「妊娠」できる、と
思っていなかったので、
(男だ、とか、女だ、とか、あまり意識しないで生きていたってことです)
妊娠した時は、え?わ、私が?妊娠?と、本当にびっくりした、というか、
軽くショックだった、というか。
(自分が保育園の頃、図鑑で頭蓋骨を初めて見た時。
自分の目の周りを触ってみて、その図鑑の頭蓋骨と同じように、
自分の目の周りにもくぼみがあるのを知って、自分は人間なんだ…とすごくショックだった時と
似ていました)
そんなこんなで、長女が生まれた時は、
「これまでと同じようには生きられない(自分のやりたいことだけ考えていればいいのは終わった)」というのと
「この異星人の面倒を私がしっかりと見なくてはいけない現実」と
「こんな私をお母さんと思って生まれてきてくれた長女に対して少し申し訳ない気持ち」と
「これまでまるでやったことのない、お母さん業ということへの強烈な不安」と
「(日本に帰国したばかりだったので)日本の生活とやらに慣れなくてはいけない不安」と、
もう様々な気持ちが入り混じって、
正直に、赤ちゃんが来たー!嬉しい!!よりも、
とんでもないことになってしまった的な気持ちの方が強かったです。
長女の子育ては、大変でした。
いや、「私」は大変でした。
あの「これまでの自分じゃダメだ」「太刀打ちできん」「変わらなくちゃ、この先
やっていけない」と、切羽詰まった状態で、
赤子を育てるのと、自分の心を(自分の中を)見つめ直して、改修していくのと、
同時プレーで、とんでもなく大変でした。
でも、すごく鍛えられて、鍛えられて、あの頃よりは、とても
良い状態の自分になれたと感じています。
お母さんになれて、よかった、と感じています。
そして、今度は2番目の子が生まれました。
長女の時で、相当鍛えられたので、次女に関しては、
ものすごく余裕がありました。
赤ちゃん、ってどういうもの、というのも、長女の時に知ることができましたし、
嬉しいなぁ、可愛いなぁ、と笑いながら、子育てできています。
そして、余裕がなさ過ぎた長女の子育てでは見えなかったこと。
私が見切れなかったこと、です。
「経験を奪わない」
転んだら危ないから、すぐに支える。
犬が噛むかもしれないから、犬からすぐに遠ざける。
高いところから落ちてしまうかもしれないから、すぐに抱き上げる。
でもきっと、違うなって、ある時感じました。
赤ちゃんはすごいです。大人よりも、もっともっとすごいです。
大人は世の中に揉まれてしまっている分、動物的な勘というか、本能、というか
生き延びるための逞しさ、みたいなものが、赤ちゃんよりも弱まっているのかもしれない、と、ある時、閃きました。
赤ちゃんは、吸啜反応(おっぱいをちゅうちゅうする=生きるために乳を吸う)や
自分の体重を支えられるくらいの握力があったり(これもきっと、落ちてケガをするのを避ける働きと思います)
身を守ること、危険を回避すること、にかけての勘のようなものは、きっと大人よりも強いんだ、と感じました。
だから、私は、私の主観、経験上得た知識からの「危ないよ!」を
しないようにしてみよう、と思いました。
危ないからやらせない、危ないとお母さんが思うから、子供に禁止する。
でも、きっとそれでは、子は逞しく育ちません。
やってみる、ゴチンと頭をぶつける
→あーこういうやり方だと、痛いんだな、と子供自身が、自力で学ぶ。
赤ちゃんが、子供が、まずは、経験をしてみる。
からだのバランスだったり、からだの使い方だったり。
痛い思いをしたり、泣いたり。
そうしてみて、自分の経験で学ぶこと、が大切なのでは、と考えるようになりました。
だから、私は、やらせます。
やってみたらいいよ、と思って。
私の役目は、何が起こっても、いいよ、と見守ること、です。
見守る=何が起こってもちゃんと責任を取る、です。
やらせてみて、転んで、泣いたら、そうだよね、痛かったよね、こうすると、
転んで痛くて泣いちゃうよね、と経過を見守って、結果に同意することです。
子供の感情と横並びになってあげることです。
一緒になって、痛かったよね、と感じてあげること。
次女が2本足で立てるようになって。
嬉しいね、嬉しいね。立てるようになっちゃったね、と、一緒に喜ぶこと。
そうやって、子供の気持ちに寄り添ったり、見守ったり。
とても幸せな時間だなぁと感じます。
大切な子供たちが、自分たちの感覚、経験を頼りに、逞しく
生きてくれたら、とっても嬉しいです。
読んで下さってありがとうございます。