日々のこと 感じたこと

HSP/子育て中の私の備忘録です

「忙しい」札(免罪?)

こんばんは。

台風が去ってまた蒸し暑いのが戻ってきました。

 

でも。

夏、です!夏は思い切り暑くなくっちゃ。

涼し過ぎる夏だと、それはそれで寂しい感じがするし。

うんざりするくらい暑いのを楽しみましょう。

 

「忙しい」

忙しい、忙しい、ってよく聞く言葉ですね。

忙しい・・・・・。

 

「亡」の横についているのはりっしんべん、で、もともとは「心」の意味合いがあるようです。

心を亡くす、なんて・・・・。

心を亡くす。心を亡くす。心を亡くして、何に向かっているのでしょう。

 

 

「ああ・・・忙しかったの、ごめんね。」

「忙しくて連絡できなかった。」

「忙し過ぎて、全然覚えてなかった。」

「忙しくて、本当、この半年くらい記憶がないわー」

 

私の夫は

「忙しい」と書いてある札を、まるで首から下げているようです。

こちらにも、はい「忙しい」(札を見せる)

あちらにも、はい「忙しい」(札を見せる)

 

「忙しい」札は、通行手形みたいに、これさえ見せれば、どこでもパスできる、と

思っているようです。

(私はそれを冷静に見ています)

 

えーでも違うのだよ、君。

忙しい札をちらっと見せて、免罪と思っているようだけど、

ごめんね、免罪にはならないね。

忙しいをふりかざして、そうしてその間に、誰かに対して無礼を働いていたり、

約束を守る、とか、時間を守る、とか、最低限の連絡はする(情報は共有する)、とか

「最低限」の、人の中で生きるとは、というのを忘れて

恐らく、一番大切な家族に嫌な思いをさせて、

自分、自分、自分になっていないかい?

 

そうして、君は一体、どこへ向かっているのかい?何をしようとしているのか?

エゴに完全に乗っ取られているのに、いつになったら気づくのかい?

 

忙しい、忙しいと口癖のように言っていますが。

ごめんなさい、厳しいこと言います。

忙しいって、つまり、自分の時間を自分でうまく、管理できていない、ってこと、

です。

自己管理能力が低い、ってことです。

自分のできること、自分のできる量、自分の今現在の限界を

見誤っている、っていうことです。

周りの人にとても不快な思いをさせたり、ひどいなぁ、っていう扱いをしたり。

 

私には、もう、わかりません。

反面教師的に、その姿を見せてくれているのか。

それとも、私は何か大切なことに気づけていないのか。

このまま、結婚という形を取り続けていいのか。

それとも、これは、「もういいよ、よくがんばったよ、これまで」と

別れを示唆しているのか。

 

無意識的に「忙しいー」って言っている方。

忙しいって、「自分は自分の時間の管理をすること、自分の能力を正当に見極めること」が

できていない人なんですーーーって

言っていることと同じなんです。

実は暴走族=珍走族、みたいな?

 

はーなんて厳しい言葉。

 

私も、エゴに乗っ取られないように、自分を見誤らないように、

毎日、内省する日々です。

 

読んで下さってありがとうございます。

 

 

 

自分に深く深く潜って・・・

こんにちは。

台風が来ていますね。

2番目の娘が熱を出していたし、お迎え時に強風・・・なんてことも

あり得る、と思って、

今日は2人とも保育園をお休みさせました。

まだ外は明るくて、時々びゅーっと強い風が吹いています。

これからどんどん風やら雨やらが強くなるようですね。

台風が来ている時、冬に大雪の時、

家の中にいると、守られているような感じがして、

とても安心します。

安心な巣穴に隠れている小さな野生の動物みたいな気持ちになります。

 

では本題へ。

自分に深く深く潜って・・・・・。

 

洗濯物を干している時、夕方、夜ごはんの支度をしている時、

お風呂を洗っている時、歯磨きをしている時、など、

ふっと気づくと、頭の中であれやこれや、ずっといろいろなことを

考えています。ずっとです。

もちろん、あ、明日は駅の方へ行くから、薬屋さんであれとあれを買おう、とか、

そういう実務的なことも考えていますが、

たいていは、物事の本質?みたいなことを、ずっとずっと

私の中に見せてくれています。

 

これは、「私」の奥底が教えてくれることなので、

「私」にとっての正解です。ふーむ、こうなのかもしれないな、と私は

感じています。

もしも、他の誰かにも役に立てば・・・・と思ったので

書いていこうと思います。

 

これは映像として、見せてくれたことです。

 

人は無数の選択をしながら生きています。

その無数の選択、それぞれに、それぞれのストーリーが展開している・・・・みたいな

映像でした。

例えば、

朝目が覚めて。普通に起き上がる私と、そのまま寝続ける私。

普通に起き上がる私には、その私の1日のストーリーがあり、

そのまま寝続ける私には、それまた別のストーリーがある、

その1日のストーリーも、細かく無数に枝分かれていて、起き上がる私は

では朝ごはんを食べようか、食べないでいようか、それまたそれぞれの枝分かれがあり、

朝ごはんを食べるなら、パンにしようか、それとも違うものにしようか、でまた

枝分かれし・・・・・・・・

それに加えて、そのまま寝続けている私バージョンにも無数の枝分かれストーリーがあり・・・・・・

という気の遠くなるような無数の枝分かれ(選択)で

展開している、世界でした。

これは、私だけ、ではもちろんなくて、生きている人、みんなに起こっているのです。

だから、遠くから見た時、ものすごく巨大なクモの巣みたいな世界でした。

何かを選んでいる私、に続いている道と、何かを選ばなかった私、に続いている道。

ありとあらゆることが、選択、なんです。

それに加えて、家族と一緒にいたり、友達と過ごしたりしたら、

このタイミングで、娘Aが〇〇と言う/言わない、とか、これまた別の絡みの

新しい展開もあるわけです。

なんだか、とても複雑なパラレルワールドでした。

 

つまり、この映像は、私に何を言いたかったのでしょう。

小さなことも譲らず、妥協せず、自分の本当の気持ちで選び続けて行ったら、

振り返った時、自分なりにとても満足できる生き方ができている、ということに

なるのでしょうか。

自分の心から離れていく道だって、存在し得るのです。

それを決めるのも、自分、ということ。

娘にかける一言も。主人にする何か小さな行動も。

 

さて大変。

2番目の娘がパソコンの近くにやって来ました。

もう止めましょう、の合図です。

 

 

読んで下さってありがとうございます。

 

自信がなかったり、落ち込みやすいHSPについて考えてみる

こんにちは。

白い空で、空気はもんわりと張っていますね。

台風が近づいてきているからでしょうか。

 

今朝は歯医者へ行ってきました。

 

いつも思います。

あー私、この歯医者の椅子が欲しい!と。

 

深く腰掛けて、背もたれを倒され、頭の位置も低くされ。

目の上にはタオルを載せてくれます。

椅子全体に施されたクッション?は、からだをぴたっと包んでくれるようです。

硬すぎず、柔らかすぎず(3びきのくま、みたい)。

 

そうやって、何も見えない状態で、私の周りで、

歯科助手の方が器具を用意するカチャカチャいう音、先生が近づいてくる気配、

隣から聞こえてくる話し声。

意識がぐわーーっと、自分だけ、になります。

瞑想しているみたい。自動的に。

いつも、タオルの下では、私はぼーっと、というか、うっとり、というか、

不思議な状態になっています。

 

 

さて、では、本題へ行きましょう。

 

HSPの陥りやすいところを、私なりに考えてみます。

どうして自信を持てないのかな。

どうして、時々、落ち込んでしまうのかな。

私もそうでしたから、苦しいのも知っていますし、わっと泣いたりもしました。

 

さて。

どうやって話して行ったらいいでしょう・・・。

 

あ、私(もしくは僕でも、俺でも、いいです)、HSPの気質があるわーと

自覚している方。

うーん、よっぽどのラッキーガール・ラッキーボーイでない限り、

育ててくださったご両親は、HSPとはなんぞや?HSPの気質とは?というものを

理解していない、と思います。

イメージとしては、キリンのお父さんとお母さんの元に、

キリンの外見をしたカバの赤ちゃんが来た、

みたいな感じです。

キリンのお父さんとお母さんは、キリンの赤ちゃん、と思って接し、いろいろなことを教えます。キリン的に必要なことを。

キリンの外見をしたカバの赤ちゃんは、キリン界とはこういうものなんだ、と

思って、必死についていきます。

でも、心の中では、うーむ、何かが違う・・・・・・・と感じます。

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HSP気質、とは。

心がゆらゆらしやすかったり、

小さなことが気になって、うまく乗り越えられなかったり、

人の気持ちがわかり過ぎるほどわかってしまったり、

特定の感覚が鋭敏だったり(視覚、味覚、聴覚、嗅覚などです)、

人の中にいると、どっと疲れてしまったり、

自動的に気を配り過ぎてしまうことがあったり、

大きな音や強い匂いが苦手だったり、

争い事やケンカの場面に耐えられなかったり、基本優しい心を持っていたり・・・・・

みなさんもよくご存じだと思います。

 

集団の中で、自分だけ浮いている感じがしたり、

大多数がいいね!と言っていることに

うーん、・・・いいか?と実は思ってしまっていたり。

無駄に群れたくなかったり。ひとり時間がないと崩壊しそうになったり。

嘘ついている人が透けて見えちゃったり。

 

でも基本、「善」の考えが強い気がします。

そして、心のひだが人よりも細かくて、多い、結構精密なマシーンだと思います。

 

今、なんだか生きづらい、とか、なんだか苦しくなっちゃう、と感じるHSPの人には、

以下の原因があるのではないかと思います(私見です)。

 

物心ついた頃、幼少期、子供の頃、まあそういった時期に、周りの大人たちに

「気にし過ぎだよ」「そんなことで泣かないの!」「細か過ぎだなぁ」等々

自分の素直な感覚(悲しかった、寂しかった、これが嫌だった、これが気になった等)を表明した時に、

それをそのままの状態で受け止めてもらえなくて、

むしろ、否定的な反応をされてしまった。

 

→自分が感じること、そう感じた、ということは、否定されるようなことではなくて、

もうそのままで正解だと思います。

 

もう一度言います。

感覚・感性は否定されるものであってはいけないのです。

 

 

例えば、ママがお話聞いてくれなくて、悲しかったの、と娘は時々言います。

娘は、私(ママ)が彼女のお話を聞いてくれなかったから、「悲しい」と感じた、のです。娘がそう感じた、その感性に、いいも悪いも、否定もありません。

そうかー、ごめんね、悲しかったよね、そうだよね、ママったら、

お皿なんて洗っちゃって、全然お話聞いてなかったもんねー、と全面的に

そのまま受け止めてあげます。

 

子供の頃に、悲しくて泣いた時、「もう、泣かないの!」とか、「こんなことですぐ泣くー・・・・」とか、言われていた方(でも親御さんも無意識です)。

知らず知らずのうちに、自分の感覚(悲しいと感じた)を全面に(素直に)出したら、どうやら世界(この世)ではダメなようだ、と勘違いし始めます。

そうやって、ここで生きていくためには、生き抜くためには、

自分の感性丸出しでやっていたら、どうやらダメみたいだね、と思い始めます。

これがエゴとして、ぺとっと、本来まっさらな魂にくっつきます。

(エゴには必要なエゴと不要なエゴがあると思っています。

処世術、みたいなものなのかなぁと。)

 

小さな子供にとって・・・・。

親、というのは絶対です。子供の中で、世界観のすべては、親なんです。

親がダメといったら、この世ではダメなんだー、と思ってしまうのです。

親の世界観を、子供は全力で完全コピーするのです。

 

このぺとっとくっついた後付けのエゴ(感じるままに感じたらダメだよー)に

気づかない人も、たくさんいると思います。

そういう人はHSPではありません!

 

このぺとっとくっついた後付けのエゴと、本来の自分の感性・感情との

間にギャップがあるのを感じる方、

心の中に、2つの声があって、どっちを選んだらいいのかわからなくなって、

無性に閉じこもりたくなったり、定期的に自分を見失ったりしてしまっている方、

そういった方が、自信をなくしてしまっているHSPの方たちなのかなぁと思います。

 

生んで育ててくれた両親を否定したらダメだよーって感じる方もいるかもしれません。

たまたま、お父さんやお母さん、という血縁関係があるけれど、

ぐわーっと引いて世界を見てみたら、

お父さんやお母さんも、一人の人です。

間違えたり、知らないことがあったり、何かが得意だったり、不得意だったりする、

普通の人、です。

感謝することと、考えや価値観を鵜呑みにするのは違います。

 

 

自分の感覚を丸出しにしたらダメなんだよね、と勘違いしている限り、

自信がないループを回り続けると思います。

よっし!せめて私だけは、最低限自分の感覚の味方だからね、

と自分で自分を全肯定してあげたら

きっと気づくと思います。

お腹の中からじわーんとあたたかくなります。

それが「自信を持つ」という状態です。

 

読んで下さってありがとうございます。

生き物たち

こんにちは。

今日もじりじり暑いですね。

私が小学生の頃、一番暑い月は確か8月で、それでも最高気温32度、とか

31度、とかだった記憶があります。

それから30年近く経って。

最高気温は35度やら36度やらも頻発で、

途中、外国で過ごした10年はわかりませんが、

確実に、日本は気温が上昇している、と感じます。

あの頃は、熱中症なんていう言葉はなくて、

まだかわいらしい日射病、という言葉でした。

 

私は関東に住んでいますが、ある時、沖縄の那覇市の最高気温よりも、

関西や関東の最高気温の方が高くて、

あー暑いのが、どんどん北の方へ移動してきているのかなぁとも思いました。

今まで梅雨のなかった北海道も、今年は梅雨前線が北海道の方まで張り出していましたよね。

 

今、熱帯地方で採れているバナナも、この先、沖縄や九州でも採れるようなったり、

植物の生息地や、野菜、果物の栽培地にも変化が出てくるのかなぁと思ったり。

 

これまでのツケなのか、それとも、地球の変化というか、進化なのか・・・。

私にはわかりません。

 

さて。

今日は生き物のお話を。

森が近くにあったり、緑がまだまだたくさんあるところに住んでいるので、

日常、虫に遭遇する率は、普通に高いと思います。

蟻やダンゴムシ。てんとう虫やバッタ、みつばち、いろいろな種類の蝶々。

 

 

これまで、不思議な出会い、というか、え?なんでこのタイミングー?という生き物との出会いがありました。

ある時。ごはんを食べ終えて、お皿を洗い、台所を掃除していた時。

ふと、横を見たら、食器の水切りの下に、なぜかクワガタが。

ク、クワガタ?なんで、いや、どうやって家の中に入ってきたの?え、えええ?

と、ただただびっくりしました。

 

別のある時。今は5歳になる娘と夜のお散歩へ出かけて、近所のお家の庭にある

びよーんと垂れ下がった植物(蔓?)を、ふざけて引っ張った瞬間。

どさっと何かが落ちてきました。

私の人生で初めて見た、トノサマバッタ

図鑑でしか見たことがありませんでした。5センチくらいの大きさで、

トノサマバッタという名前に見合う風格でした。

うわー初めて見たよ。うれしいねぇ。会いに来てくれたんだね、と娘と話して、

さようならをしました。

 

また別のある時。

換気扇から何かがどさーっと落ちてきました。

ご、ごきぶりー?と思いましたが、勇気を出して、携帯のライトで照らしてみたら

巨大なムカデでした(おえーー)。

からだは緑で、足は赤の、それはもう、本格的なムカデです(ヤスデという小型のかわいいものじゃありません)。8センチとか、10センチはあったと思います。

 

虫とは違いますが、また別のある時。

夜、主人と娘2人と、私で、コンビニ散歩というものへ出かけた時。

(コンビニ散歩は、5歳の娘がつけた名前で、歩いて15分くらいの一番近くのコンビニまでお散歩がてら行って、そこでお菓子を買ってもらう、というものです。

ピンク色のらせん状になったゼリーやら、ぶどう臭が強烈なお菓子やら、子供が大好きそうな、且つ、健康に悪そうなお菓子を買ってもらうのです)

雨が降った後で、道路は濡れていました。

街灯はありますが、住宅地なので、全体的にうすぼんやりした明るさでした。

はっと行く先を見ると、おにぎりぐらいのサイズの何か、が目に入りました。

私はとても目が悪いですし、度が強過ぎると、頭が痛くなるので、

眼鏡も結構ぼんやり気味に設定してあります。

なぜか、瞬間的に、「生き物」とわかり、なぜか瞬間的に「カエル」とわかりました。

(自分の中で)

 

でも、不確かなので、

「わ。待って、何かいる!え。待って、カエル?」とみんなに聞いてみました。

こういう時、私は止まってしまいます。主人は、ぐいぐい行って、真実を確かめに行ってくれます。

 

本当にカエルでした。

それも、本当に、おにぎりサイズの大きなガマガエルでした。

これも、人生初のガマガエルで、図鑑に載っているような、立派なカエルでした。

道路の真ん中にいたので、

「危ないから、こっちに来てー」と、隅の方へ誘導しました。

車に轢かれてしまったら可哀想です。

重そうな、ぺっとん、ぺっとん、という音と共に、道路の隅まで来てくれました。

 

別のある朝。

子供たちを保育園へ送り終えて、自転車で家に帰っている時。

目の前を黄土色で鼻先が少し長い生き物がのそのそと横切りました。

そして、垣根のところに潜り込みました。

その横を、急ぎ足で通った男の人もいましたが、

その黄土色の生き物には気づいていなかったと思います。

(もちろん家に帰って調べました。正解はハクビシン、です)

 

 

数多くの、謎の出会い。生まれて初めて見ちゃったよ的な。

 

そしてある時、はた、と思いつきました。

こういう虫たち(鳥・動物)は、本当に、会いに来てくれていたのではないか、と。

 

5次元的視点で、これらの生き物を見てみると。

みんな神様のお使い、みたいな役割の虫たちでした。縁起の良い虫や動物たち。

カラスも、ハクビシンも、てんとう虫も、ムカデも、カマキリも、クモも。

コガネムシやアゲハチョウも。

 

それまでは、大丈夫な生き物とおえーっと拒絶する生き物といましたが、

私の目の前に現れる、ということは、みんな、何かを伝えるために私に会いに来たのでは?と考えるようになりました。

そして、小さな生き物(虫)にだって、ちゃんと命があるので、

勝手な判断や都合で殺してしまったら、ダメだよね・・・・と考えるようになりました。

 

人は、ヒトが、一番、と思っていますが、もしも、ヒトよりももっともっと

高等で、巨大な何かが動かす世界があったとして、

「うわー見てー、ヒトがいる、気持ち悪い、えい!(つぶして殺してしまう)」

と、ヒトが害虫的な扱いを受ける世界があったとしてもおかしく無いのです。

それと同じことを、たくさんの虫たちに私たちはしている、ということです。

 

やむを得ない場合もあると思います。

家の中に、スズメバチが間違って入ってきてしまったり。

でも、極力、殺さない方法を取りたいです。

 

窓を開けて、ごめんなさーい、お外へ行ってくださーい!とお願いすると、

結構みんな言うことを聞いてくれますよ。

 

読んで下さってありがとうございます。

感情を消化させる大切さ

こんにちは。

今日も盛大にセミが鳴いています。

洗濯物も素敵に乾きそうです。

 

さて、今朝のできごとです。

保育園に5歳の娘と1歳の娘を送りに行く時。

私は家の前から車道まで、自転車を押していました。

その後ろを5歳の娘が歩いて付いてきていました。

ある瞬間、5歳の娘がつまづいて、どてーっと転んでしまいました。

首から下げていた水筒からは、お茶がどんどん流れていきました。

 

どこが痛い?血が出ちゃった?手に穴が空いちゃった?膝を打った?

 

と私は声掛けをしました。

 

娘は、う、うわあああと泣いていました。

 

自転車を横に置いて、娘のそばに行き、どこかケガをしていないか、

確認をしました。

どこにも出血はありませんでした。

 

す、水筒がぁ・・・・・・・と娘は泣いていました。

転んだ時の衝撃で、水筒のふたがばしーんと欠けて壊れてしまったからです。

(数か月前に、私が水筒を落としてしまって、ふたにひび割れができてしまいました。

でも、まだ使えるから、大切に使おうね、と使っていた水筒でした)

 

涙を拭いて、とりあえず、自転車に乗せて、保育園へ向かいました。

自転車で走っている途中、

転んじゃったのが悲しかったの?と私は聞きました。

娘は、水筒がぁ・・・・・と、水筒のふたが壊れてしまったのが悲しかったようです。

 

保育園へ着きました。

同じクラスのお友達は、もうたくさん集まっていました。

 

娘には、さあ、お仕度しようね、と声掛けをしました。

彼女の顔を見ると。

ゆらゆらしているのがすぐにわかりました。

ゆらゆらしているのは、彼女の心です。

 

娘は私に、泣きそうな顔で、

「今日は早お迎えして・・・・。」と言ってきました。

(早お迎えは、いつもよりも、早い時間にお迎えに行くことです。

お昼寝の時間の前、だったり、おやつの時間の前、だったり。

早お迎えは、ちょっとだけ特別な感じで、みんなが、いいなーという

反応をしてくれるのです)

 

「ちょっと疲れちゃった?」と私は聞きました。

相変わらず、ゆらゆらしているのがよくわかりました。

 

ゆらゆらする時。

自分もすごくよくわかります。このゆらゆら。

今にも泣きそうなのに、必死に泣かないで外の世界にがんばって立とうとする時、

この、すごいゆらゆらになります。

自分の中のコップには、表面張力で、ぎりぎりのところまでお水が入っているのです。

最後の一滴が、ぽちょん、と落ちたら、もう、うわーーーっと泣く、あの

ぎりぎりの線の時です。

 

その時、同じクラスのお友達が、娘に話しかけました。

「ねぇねぇ、どうしたの?〇〇(娘の名前)ちゃん?」

 

今回は、それが、最後の一滴になりました。

娘は、う、う、う、うわあぁぁぁと激しく泣き出してしまいました。

 

周りの先生やお友達は、??????ですよね、完全に。

 

先生に、ちょっと、お話してきますね、と伝えて、

みんながいない廊下で娘と話をしました。

 

う、う、うわぁぁと相変わらず、娘は堰を切ったように泣いていました。

話さなくても、十分、わかりました。彼女がどうして泣いているのか。

 

私と娘、この2人だけだったら、話をしなくても、わかってしまうことが

たくさんあります。どうして泣いているのか、何が嫌だったのか。

どういうポイントで、心が反応してしまうのか。

いろいろと、わかってあげることができます。

でも、常に常に、私は娘と一緒にいてあげることはできません。

彼女には、自分のお友達との世界があって、保育園という世界もあって、

周りにいて下さる、先生方との関係もあって。

外の世界で、うまく生きていくためには、

自分の気持ちをちゃんと話す必要があります。

 

それの練習をしてもらうためにも、私は、娘に聞きました。

「何がとっても悲しかった?」

 

娘は、わあわあ泣きながらも、一生懸命、

す、す、す、水筒がぁ・・・。水、筒がぁ、こわ、こわ、壊れちゃってぇ・・・・・と

伝えてくれました。

 

可愛いなあと思いました。

自分の水筒が壊れてしまったのが、とても悲しかったと。

もしかしたら、自分が転んでしまったから、壊してしまった、と感じて、

あんなにも泣いていたのかもしれません。

 

だから私は、

「ママがどーんって落として、ふたにひびが入っちゃったけど、

それでも大切に使ってくれていたでしょ?

もしもね、〇〇(娘の名前)がふざけてぼーんって水筒を投げて、ふたを壊しちゃったのだったら、叱ると思うよ。

でもね、誰も転びたくないけど、時々転んでしまうことがあるのよ。

それで、転んじゃって、水筒のふたが壊れちゃった、っていうのは、事故、ってことだよ。誰も望んでいないけど、起こってしまった、っていうことは、事故なの。

水筒さんも、今まで大切に使ってくれて、ありがとうございます、って言っているよ。

だから、今までありがとうございました、って、新しい水筒を買っても

いい時なんだと思うよ。」

と、彼女に伝えました。

 

娘は、それで、やっと気持ちの整理ができたようでした。

思い切り泣いて、水筒を失う悲しさは、消化できたようでした。

すっきりした顔に戻って、先生のところへ行きました。

 

この朝のできごとを見て。

感情をちゃんと、消化させることって、やっぱりとっても

大切なんだなと感じました。

 

帰り道、自転車をこぎながら。

子供の頃って、何かあって、うわーって泣いた時、

途中から何がこんなに悲しくて泣いているのか、自分でもわからなくなって、

でも頭の中というか、心の中で、あああ・・・あの時のあれも悲しかったー、

あの時の、これも悲しかったーと、そう言えばあの時のことも・・・・・・・と

ささやか過ぎて、泣くまでには至らなかったけど、

それでもやっぱり、ちゃんとは消化できていなかった悲しいことを総まとめにして、

この際、全部をまとめて泣いてしまえーみたいにしていたのかもしれないなと

思いました。

きっとそうやって、小さな悲しみを消化させていたのかもなぁと。

 

大人になってからも。

無意識に選んだ映画で。ううう・・・・と泣いてしまうことがあります。

自覚していなかったけれど、でもきっと、奥底では、

私、泣きたかったんだ、と。

泣くと、気持ちがパリッとしますよね。すっきり。

 

だから、もちろん、時々泣くことは、必要なんです。

大人も男も女も。

 

読んで下さってありがとうございます。

当たり前ワールド/ありがとうございますワールド

こんにちは。

今日もいいお天気ですね。

夏の素敵なところは、洗濯物ががしがし乾くところ。

大きなシーツもお布団カバーも安心して洗濯して、干せるところ。

夕方、まだ空は明るくて、冬だったら、とっくに暗くなっている時間も

まだ明るくて、生ぬるい風が吹いていて、

ああ、今日も無事に1日が終わろうとしているんだなぁと

しみじみ嬉しくなれるところ。

冷たいビールがとってもおいしく感じるところ。

 

さて、では。

当たり前ワールド。

私は、前は、当たり前ワールドの住人でした。

なーんだって当たり前。

ごはんがあるのも、自分が健康でいるのも、お金があって、何かを買うのも。

あらゆることを、「普通」に見ていました。

 

そしてある時、結婚する前で、夫がまだ彼氏だった頃、彼に言われた言葉。

「感謝がないよね」

 

感謝がない。感謝がない・・・・・・。

 

 

その時、私は心の中で、

「感謝がない。感謝?うーん、特別ありがたい、って確かに思えないなぁ」

と感じたのを覚えています。

でも、その言葉が引っかかりました。

 

私には、どうやら、「感謝する心」というものが足りなさそうだ、と。

 

感謝する心、感謝する心。

 

そうして、少しずつ、少しずつ、感謝する心について

勉強し始めました。

今思うと、私は何だって当たり前、の視点で物事を見ていて、でも

「ありがとう」という言葉は発していました。

 

ありがとう。ありがとう。

 

ありがとう、と心の底からわかっていないくせに、形式上、表面上、

「ありがとう」という言葉をシールみたいに使っていました。

軽い、(本来の)気持ちのこもっていないありがとうシール。

 

ありがとう、ペタ。

ありがとう、ペタ。

 

ありがとう、の本当の意味を知らずに、ありがとう、というただの言葉だけ

だったと、今はわかります。

 

自分の中で正直に、いろんなことが当たり前だよーに見ていてる自分がいて。

でも、どうしたら、同じ世界を、ありがとう、ありがたいなぁに変換できるんだろう、

という試行錯誤が始まりました。

 

自分の中のダイヤルをガチャン、ガチャンと調整する日々でした。

その都度、あーこれは、まだ当たり前だわーって感じちゃっているなぁと

自分の心に正直に。

ではもう少し、調整する必要があるんだなぁ、と。

当たり前ワールドチャンネルから、ありがとうございますワールドチャンネルへの

変換ダイヤル。角度はどれくらい回したらいいの?

5度?え、ダメ、もう少し?あと、10度?まだ?と。

 

 

当たり前ワールド視点、って私の傲慢さの表れ、だったわけです。

傲慢だったから、何でも当たり前、何でも普通に見えていたわけです。

傲慢さを少しずつ少しずつ薄くして、そうして見えるようになった世界は、

あらゆることが、なんてありがたいんだろう、に変わりました。

 

夜中に地震津波も何事もなかったからこそ、平和にまた朝を迎えられる、ということです。

自分のからだが、病気に侵されていたり、ケガをしていないからこそ、

こうして、自分の家のお布団で寝て、目覚められるわけです。

元気なからだを頂けたからこそ、朝ごはんの支度ができたり、洗濯物を干せたり、

家族や犬のお世話ができる、ということです。

夫が健康なからだで、仕事ができるからこそ、お給料を頂けて、生活できている、ということです。

お給料があるからこそ、食べ物を買うことができて、お布団や洗濯機、生活に必要なものを買うことができる、ということです。

 

そもそも、命を頂けたからこそ、今こうして、考えたり、何か行動したり、文章を書いたりできるわけです。

 

冷蔵庫の中にあるキャベツ。私が作ったものではありません。

キャベツの苗を育てようと思ってくれる人から始まって。

育てる畑を持っている人がいてくれて、

キャベツを栽培する仕事をしようと思ってくれる人がいてくれて、

キャベツを箱詰めしてくれる人がいてくれて、

キャベツをトラックに載せて運ぶ仕事をしてくれる人がいてくれて、

キャベツを市場まで買いに行ってくれる人がいてくれて、

キャベツをお店に並べてくれる人がいてくれて、

レジの仕事をしてくれる人がいてくれて、

今、こうして、私の家の冷蔵庫には、キャベツがあるわけです。

 

キャベツだけではありません。あらゆるもの。

見えないところで、たくさんの人が仕事をしてくれて、初めて、

家にキャベツやにんじんや、肉や、魚やパンや、洗剤や、シャンプーや

ソファや、時計や、やかんが、あるわけです。

見えるものだけではありません。

医療行為や、何かのサービス、技術、情報、知識。

みんなの生活が、滞りなく流れるようにしてくれているもの、人たち。

 

この視点で物事を見ると、

あらゆることが、「普通」なんてものではなくて、「奇跡」の連続で

成り立っているんだとよくわかります。

この奇跡をありがたい、と感じます。

みんな、みんな必要だ、と。

仕事の優劣なんてありません。どれも必要な仕事です。

その奇跡の連続を当たり前、と見てしまうようになったら、

謙虚さを忘れてしまっている、ということです。

 

これは、自分への戒めでもあります。

人は悲しいけれど、慣れてしまうものです。

 

だから、意識して、毎日を過ごしたいです。

気づかせて頂けて、ありがとうございます、なのです。

 

読んで下さってありがとうございます。

 

自分の心に従う、の追記

こんにちは。

すっかり間が空いてしまいました。

少しずつ、私が書いたものを読んで下さる方が増えてきて、

とても嬉しく思います。

みなさんありがとう!

 

さて、何から書いたらいいでしょうか。

 

えっと。このブログは、HSPの方がきっと多く読んで下さるのかな、と

思うので。

 

私の勝手な推測ですが・・・・・。

HSPの素質のある方たちは、きっと、5次元的思考の種、みたいなものを

持っている方たちなのかな、と思います。

いきなり5次元、なんていう言葉ですが。唐突でごめんなさい。

 

ブログを半年ぐらいお休みしている間、私の中に、ありがたい情報が

どんどん入ってきました。

 

自分の中にある、自分の本来の声、と、後付けされたエゴの声を少しずつ選り分けて。

自分の本来の心の声の純度を上げてきました。

そして、常に常に、それに従う、という実験をしていました。

その間、「偶然を装った」「必然で」、私にどんどん、必要なありがたい情報や

知恵、アイデア、工夫、とにかく、智慧、みたいなものが

入ってくるようになりました。いや、授けて下さった、と言いたいところです。

 

3次元的思考、とか、5次元、とか、宇宙の法則、とか、アセンションとか。

これまで、全然知らなかったこと、意識なんてしてなかったこと。

 

(んん?という言葉は、調べて下さると助かります)

 

今こうして、これまでの自分が通ってきた道を眺めてみると。

HSPの人は、きっと、3次元(この地球)に生まれてしまったけれど、

奥底で、5次元的思考の記憶が普通の人よりも残っている人たちなのではないか、と

思うようになりました。

だから、浮いている感じがすごくするし、みんながやっていることに違和感があったり、変なところ、やたらと正義感が強かったり(浮くくらいに)、

これは、こうなんです、よくわからないけれど、でも、こうだとわかるんです、という

教わる前からもう知っている感覚、というか、情報、というか。

(物事の本質をすでに知っている、ということです)

 

恐らく、

うまく行かずに、生きづらさを感じているHSPの方たちが

一番最初にした方がいいことは、

とにかく、自分の感覚に自信を持つこと、かなと思います。

 

「私」は、〇〇と「感じる」、例え、他の人の賛同を得られなくても。

浮いていて結構。みんな違っているんです。みんな、違っていてそれぞれ個性がある、が大前提なんです。

個性を奪って、違っているみんなを同じにしよう、はみ出しちゃダメだ、が、学校システムなんです。

 

せめて、自分だけは、自分の細やかな感覚の味方でいてあげて、

常に寄り添ってあげること。

自分の感性、感覚を自分の正解、としていいのです。正解はこちら側、なんです。

 

両親が言っていたこと、生まれ育った環境の価値観、社会の一般常識、

普通、ということ、これまで得た情報の、あらゆるものを

一度、疑って、よく、自分の中で精査してみること。

丁寧に、です。

これは、自分本来のものかな、それとも、後付けの情報かな?と。

自分本来を装った、後付け情報、もあります(それくらい、奥底まで染み込んでいて

怖いです!)。

わからなかったら、実験してみたらいいです。

普通に生活してみて、あ、なんかうまく行かない、とか、

自分の心が付いてきていない、と感じたら、

それは、本来の自分の心の声ではない、ということです。

それに気づいたら、立ち止まって、自分の心に聞いてみたらいいです。

どうしたいの?と。

 

心の声に従っていたら、きっと、自分でもすごくよくわかると思います。

嬉しくて、わくわくして、幸せだ!なんでもできちゃう感じがする!という

とても強い光のエネルギーに満ちている、ということです。

怖いものがないです。

 

これができてくると(少しずつでも、時間がかかってでも)、

自己統合、というものが起こるようです。

完全に自分の本来に戻るということです。

 

この姿が、宇宙には必要みたいです。私もまだまだ勉強中の身ですが。

この、完全なる光のパワーというか、良質な陽のエネルギーが、

疲れ果ててしまった宇宙には、回復するために必要な要素、みたいです。

魂が輝くことをしている人、明るさ、笑顔、5次元的思考で考え、行動する、

そういったものです。

その光のエネルギーが、地球にはびこってしまった悪いエネルギーを

追い出すのに、ものすごく役に立つようです。

 

そして、宇宙は、エゴではなくて(エゴは悪いエネルギーの方です)

心の声に従っている人たちを、完全にバックアップして、守ってくれます。

たくさんの支援が「偶然を装った」「必然」で届くようになります。

情報、アイデア、知恵、智慧。経済的なもの。物質。

 

内観の繰り返しで、楽な道ではありません。

地道な作業です。

 

でも、明るいところに完全に出られたら、そこは、もう

すごい世界が待っています。

 

とっても抽象的な文章で、申し訳ないです・・・・・。

読んで下さってありがとうございます。

誰かの助けになりますように。