日々のこと 感じたこと

HSP/子育て中の私の備忘録です

自分だけ会議――イライラ

こんにちは。

昨日は午後からみるみる灰色の雲になって

そうして、雷ショーでした。

雷。世界はすごいことできるなぁって思います。

違う気圧の混ざったところで、ああしてびりびりびりーっと

電気を走らせることができるなんて。

あのドーーーーンという音も。

すごいなぁ。詳しくは調べていませんが、あのドーーーンの正体がわからないので

調べてみましょう。

今日もどうやら天気が変わりやすいようですね。

 

イライラする。

不平を言う。

不満を持つ。

文句を言う。

 

私を怒らせないで。私をイライラさせないで。

 

前、こういうふうに思っていました。

私の「周り」が、私をイライラさせる。

私の周りのできごとが、誰かが、私をイライラさせる。

うんざり。もうやめて。何なの一体!

なんで周りはこんなに嫌がらせばっかりするの?

 

でも。

どうやら違いました。周り、が悪いのではなかったのです。

 

イライラフィルターがかかっていたのは、私の心でした。

 

同じできごとでも、イライラする人と、イライラしない人がいますよね。

例えば、電車が何かで遅れています。

うわー遅延とか最悪。予定に遅れちゃう。ふっざけんなー!という反応をする人。

(私の母です)

 

もしくは。

うーむ、仕方ない・・・・。のんびり行きましょう。

私、だけでなくて、今電車に乗りたいみんなが受けている影響だからね。

こんな時もあるさ!という反応をする人。

(読書がはかどっちゃうわ!とか、たまにはこうして、ぼーっとするのもいいよね!

とか、あっという間に視点をいい方へ変えられる人)

(私の父です)

 

イライラする心ってどういう心だろう、と考えてみました。

何かに対して、こうであるべき、と硬固に信じていること、とか

(気づいていないけれど)「自分」のルールから外れていること、とか

世界の中心は「俺様」「わたくし」に見えてしまっている、とか

そういうことではないかな、と思います。

 

 

こうであるべき、っていつから、どうやって身についたことなのでしょうか。

どうして、こうであるべき、と思っているのでしょう。

「自分」のルールって広くあまねく皆に知られたこと、なのでしょうか。

これらは、とっても個人的なこと、なんですよね。

(これに気づけるまで、一体どれだけの時間がかかったことか・・・・)

 

自分ひとりで生きているのなら、それでもいいです。

ジャングルの中で、自分の力だけで、誰の助けも借りずに生きているのなら

「俺様」でも「わたくし」でも、いいと思います。

 

でも。

そういう人は、とっても少ないと思います。

私は日本語でこの文章を書いているので、

これを読んで下さる方は、恐らく日本に住んでいる方、外国に住んでいる日本人の方、もしくは、

日本語がわかる、文化のある世界に暮らしていらっしゃる方、だと思います。

 

周りには、ぐるっとたくさんの人がいると思います。

ご家族、お友達、会社の同僚、学校の方、立ち寄るコンビニの店員さん、

配達をしてくださる方、スーパーの店員さん、郵便局の方、いろいろです。

「自分」だけではなくて、たくさんの人の力を借りて、

普通に生活をしていらっしゃる方たちだと思います。

(たくさんの人の力を借りられるからこそ、「普通」の生活ができる、ってことです)

 

周りにいる人に、あくまでも「個人的な」「自分だけ」のものさしを

ふりかざして、

うわー最悪、とか、ふざけるな、とか、なんでこうなの?とか

あらゆる不平・不満をぶつけている、ということなんですね。

 

バーーーッと視点を遠くに、もしくは、高いところから見てみたら、

イライラする、文句を言うってとても幼いこと、なんですよね。

(過去に、何度も、文句が多いよね、とか、不平とか愚痴ばっかりだよね、と

言われたのを思い出しました・・・・・)

 

でも。逆手にとって。

イライラするわーっていう時、落ち着いて、自分の心に聞いてみたらいいです。

「何、に、イラっとした?」

「今、なんか、怒っているよね?でもどうして?」と。

自分だけ会議です。秘密の自分だけ会議です。

 

そうすると、ちゃんと、教えてくれると思います。

「電車が遅れたから、イライラしている」

「子供が片づけないから、イラーッとしている」

「店員がオーダーを聞き間違えて、頼んでいないものを持ってきたから」

「時間がないのに、ATMですごい行列になっているから」

「洗濯物をせっかく干したのに、雨に降られてびしょ濡れになっちゃったから」 

 

そうして、ひとつひとつ、丁寧に見ていきます。

「うんうん、電車は時間の狂いなく来なくちゃダメだ、と思っているわけね?」

「部屋はきれいでなくちゃ嫌だ、とかきれいであるべき、って思っているわけね?」

「聞き間違えをしたから、機嫌が悪くなっちゃったわけね?」

「自分に時間がない時に、待たないといけない状況だから、もーー!ってなったのね?」

「自分の都合の悪いタイミングで雨が降ったから怒っているのね?」

 

この作業をしていくと、

自分の心を客観的に見てみる、という体験ができます。

あー、私って、こんなふうに考えていたんだーと。

ぱーーんと突き放して、「自分」というものがどういうものの

考え方をしているのか、見えてきます。

 

何かが、誰かが、「自分のルール」を犯したから、

イラっと、「反応」したわけです。

 

つまり。

イラっと反応した時こそ、自分でも気づけていない「自分のルール」の

存在に気づくことのできるチャンス、ということです。

「個人的なこと」「自分だけのものさし」、の存在に、です。

 

私はこんなふうに、イライラを利用しました。

人に厳しい、完璧主義、とんでもないわたくし目線、自分の思い通りにしたい気持ち、

自分を変えるのではなくて、周りを変えたいと思う気持ち、

恐らく小さい時に親から禁止されたり、罰せられたこと、自分の容量以上のことを

やらないといけないんだ、と信じ切っていたこと、などなど。

恐ろしい自分がわんさか出てきました。

 

今でも、時々自分だけ会議、やっています。

心の中で。

あー待って待って、今、何でイラっとしているんだろう?と。

 

だいぶ掃除は終わってきた感じはしますが。

でも。

もともとの自分の心に戻る大切な作業です。

 

読んで下さってありがとうございます。

 

 

経験を奪わない

こんにちは。

蒸し暑い土曜日になりました。

1時間くらい前、私の家のあたりでは雷が鳴って、

雨がばーっと降っていましたが、

今は日が差しています。

もんわりと苦しいくらいの湿度です。

 

さてさて。

今は2人の娘を育てている最中です。

5歳の長女と1歳の次女。

5歳の長女は、心根が優しくて、大胆と繊細が混ざっていて、

そして警察官みたいに正義感が強いです。

1歳の次女は、まだまだわかりませんが、

抱っこしてると、仏様みたいに穏やかな気持ちになります。

胸のあたりがいつもぞわぞわします。不思議な子です。

そしていつもニコニコしている子です。

彼女も、大胆さと繊細さが混ざっているように感じます。

 

長女が生まれた時。

それまでの私は「自分のやりたいこと」、の道をしっかりと作るのに

精一杯で、それはもう、「自分」「自分」・・・・。

「自分」のことばかり考えていました。

そしてなぜかわかりませんが、自分が「女」で「妊娠」できる、と

思っていなかったので、

(男だ、とか、女だ、とか、あまり意識しないで生きていたってことです)

妊娠した時は、え?わ、私が?妊娠?と、本当にびっくりした、というか、

軽くショックだった、というか。

(自分が保育園の頃、図鑑で頭蓋骨を初めて見た時。

自分の目の周りを触ってみて、その図鑑の頭蓋骨と同じように、

自分の目の周りにもくぼみがあるのを知って、自分は人間なんだ…とすごくショックだった時と

似ていました)

 

そんなこんなで、長女が生まれた時は、

「これまでと同じようには生きられない(自分のやりたいことだけ考えていればいいのは終わった)」というのと

「この異星人の面倒を私がしっかりと見なくてはいけない現実」と

「こんな私をお母さんと思って生まれてきてくれた長女に対して少し申し訳ない気持ち」と

「これまでまるでやったことのない、お母さん業ということへの強烈な不安」と

「(日本に帰国したばかりだったので)日本の生活とやらに慣れなくてはいけない不安」と、

もう様々な気持ちが入り混じって、

正直に、赤ちゃんが来たー!嬉しい!!よりも、

とんでもないことになってしまった的な気持ちの方が強かったです。

 

長女の子育ては、大変でした。

いや、「私」は大変でした。

 

あの「これまでの自分じゃダメだ」「太刀打ちできん」「変わらなくちゃ、この先

やっていけない」と、切羽詰まった状態で、

赤子を育てるのと、自分の心を(自分の中を)見つめ直して、改修していくのと、

同時プレーで、とんでもなく大変でした。

でも、すごく鍛えられて、鍛えられて、あの頃よりは、とても

良い状態の自分になれたと感じています。

お母さんになれて、よかった、と感じています。

 

そして、今度は2番目の子が生まれました。

長女の時で、相当鍛えられたので、次女に関しては、

ものすごく余裕がありました。

赤ちゃん、ってどういうもの、というのも、長女の時に知ることができましたし、

嬉しいなぁ、可愛いなぁ、と笑いながら、子育てできています。

 

そして、余裕がなさ過ぎた長女の子育てでは見えなかったこと。

私が見切れなかったこと、です。

 

「経験を奪わない」

 

転んだら危ないから、すぐに支える。

犬が噛むかもしれないから、犬からすぐに遠ざける。

高いところから落ちてしまうかもしれないから、すぐに抱き上げる。

 

でもきっと、違うなって、ある時感じました。

赤ちゃんはすごいです。大人よりも、もっともっとすごいです。

大人は世の中に揉まれてしまっている分、動物的な勘というか、本能、というか

生き延びるための逞しさ、みたいなものが、赤ちゃんよりも弱まっているのかもしれない、と、ある時、閃きました。

赤ちゃんは、吸啜反応(おっぱいをちゅうちゅうする=生きるために乳を吸う)や

自分の体重を支えられるくらいの握力があったり(これもきっと、落ちてケガをするのを避ける働きと思います)

身を守ること、危険を回避すること、にかけての勘のようなものは、きっと大人よりも強いんだ、と感じました。

 

だから、私は、私の主観、経験上得た知識からの「危ないよ!」を

しないようにしてみよう、と思いました。

 

危ないからやらせない、危ないとお母さんが思うから、子供に禁止する。

でも、きっとそれでは、子は逞しく育ちません。

やってみる、ゴチンと頭をぶつける

→あーこういうやり方だと、痛いんだな、と子供自身が、自力で学ぶ。

 

赤ちゃんが、子供が、まずは、経験をしてみる。

からだのバランスだったり、からだの使い方だったり。

痛い思いをしたり、泣いたり。

そうしてみて、自分の経験で学ぶこと、が大切なのでは、と考えるようになりました。

 

だから、私は、やらせます。

やってみたらいいよ、と思って。

私の役目は、何が起こっても、いいよ、と見守ること、です。

見守る=何が起こってもちゃんと責任を取る、です。

 

やらせてみて、転んで、泣いたら、そうだよね、痛かったよね、こうすると、

転んで痛くて泣いちゃうよね、と経過を見守って、結果に同意することです。

 

子供の感情と横並びになってあげることです。

一緒になって、痛かったよね、と感じてあげること。

次女が2本足で立てるようになって。

嬉しいね、嬉しいね。立てるようになっちゃったね、と、一緒に喜ぶこと。

 

そうやって、子供の気持ちに寄り添ったり、見守ったり。

とても幸せな時間だなぁと感じます。

 

大切な子供たちが、自分たちの感覚、経験を頼りに、逞しく

生きてくれたら、とっても嬉しいです。

 

読んで下さってありがとうございます。

「忙しい」札(免罪?)

こんばんは。

台風が去ってまた蒸し暑いのが戻ってきました。

 

でも。

夏、です!夏は思い切り暑くなくっちゃ。

涼し過ぎる夏だと、それはそれで寂しい感じがするし。

うんざりするくらい暑いのを楽しみましょう。

 

「忙しい」

忙しい、忙しい、ってよく聞く言葉ですね。

忙しい・・・・・。

 

「亡」の横についているのはりっしんべん、で、もともとは「心」の意味合いがあるようです。

心を亡くす、なんて・・・・。

心を亡くす。心を亡くす。心を亡くして、何に向かっているのでしょう。

 

 

「ああ・・・忙しかったの、ごめんね。」

「忙しくて連絡できなかった。」

「忙し過ぎて、全然覚えてなかった。」

「忙しくて、本当、この半年くらい記憶がないわー」

 

私の夫は

「忙しい」と書いてある札を、まるで首から下げているようです。

こちらにも、はい「忙しい」(札を見せる)

あちらにも、はい「忙しい」(札を見せる)

 

「忙しい」札は、通行手形みたいに、これさえ見せれば、どこでもパスできる、と

思っているようです。

(私はそれを冷静に見ています)

 

えーでも違うのだよ、君。

忙しい札をちらっと見せて、免罪と思っているようだけど、

ごめんね、免罪にはならないね。

忙しいをふりかざして、そうしてその間に、誰かに対して無礼を働いていたり、

約束を守る、とか、時間を守る、とか、最低限の連絡はする(情報は共有する)、とか

「最低限」の、人の中で生きるとは、というのを忘れて

恐らく、一番大切な家族に嫌な思いをさせて、

自分、自分、自分になっていないかい?

 

そうして、君は一体、どこへ向かっているのかい?何をしようとしているのか?

エゴに完全に乗っ取られているのに、いつになったら気づくのかい?

 

忙しい、忙しいと口癖のように言っていますが。

ごめんなさい、厳しいこと言います。

忙しいって、つまり、自分の時間を自分でうまく、管理できていない、ってこと、

です。

自己管理能力が低い、ってことです。

自分のできること、自分のできる量、自分の今現在の限界を

見誤っている、っていうことです。

周りの人にとても不快な思いをさせたり、ひどいなぁ、っていう扱いをしたり。

 

私には、もう、わかりません。

反面教師的に、その姿を見せてくれているのか。

それとも、私は何か大切なことに気づけていないのか。

このまま、結婚という形を取り続けていいのか。

それとも、これは、「もういいよ、よくがんばったよ、これまで」と

別れを示唆しているのか。

 

無意識的に「忙しいー」って言っている方。

忙しいって、「自分は自分の時間の管理をすること、自分の能力を正当に見極めること」が

できていない人なんですーーーって

言っていることと同じなんです。

実は暴走族=珍走族、みたいな?

 

はーなんて厳しい言葉。

 

私も、エゴに乗っ取られないように、自分を見誤らないように、

毎日、内省する日々です。

 

読んで下さってありがとうございます。

 

 

 

自分に深く深く潜って・・・

こんにちは。

台風が来ていますね。

2番目の娘が熱を出していたし、お迎え時に強風・・・なんてことも

あり得る、と思って、

今日は2人とも保育園をお休みさせました。

まだ外は明るくて、時々びゅーっと強い風が吹いています。

これからどんどん風やら雨やらが強くなるようですね。

台風が来ている時、冬に大雪の時、

家の中にいると、守られているような感じがして、

とても安心します。

安心な巣穴に隠れている小さな野生の動物みたいな気持ちになります。

 

では本題へ。

自分に深く深く潜って・・・・・。

 

洗濯物を干している時、夕方、夜ごはんの支度をしている時、

お風呂を洗っている時、歯磨きをしている時、など、

ふっと気づくと、頭の中であれやこれや、ずっといろいろなことを

考えています。ずっとです。

もちろん、あ、明日は駅の方へ行くから、薬屋さんであれとあれを買おう、とか、

そういう実務的なことも考えていますが、

たいていは、物事の本質?みたいなことを、ずっとずっと

私の中に見せてくれています。

 

これは、「私」の奥底が教えてくれることなので、

「私」にとっての正解です。ふーむ、こうなのかもしれないな、と私は

感じています。

もしも、他の誰かにも役に立てば・・・・と思ったので

書いていこうと思います。

 

これは映像として、見せてくれたことです。

 

人は無数の選択をしながら生きています。

その無数の選択、それぞれに、それぞれのストーリーが展開している・・・・みたいな

映像でした。

例えば、

朝目が覚めて。普通に起き上がる私と、そのまま寝続ける私。

普通に起き上がる私には、その私の1日のストーリーがあり、

そのまま寝続ける私には、それまた別のストーリーがある、

その1日のストーリーも、細かく無数に枝分かれていて、起き上がる私は

では朝ごはんを食べようか、食べないでいようか、それまたそれぞれの枝分かれがあり、

朝ごはんを食べるなら、パンにしようか、それとも違うものにしようか、でまた

枝分かれし・・・・・・・・

それに加えて、そのまま寝続けている私バージョンにも無数の枝分かれストーリーがあり・・・・・・

という気の遠くなるような無数の枝分かれ(選択)で

展開している、世界でした。

これは、私だけ、ではもちろんなくて、生きている人、みんなに起こっているのです。

だから、遠くから見た時、ものすごく巨大なクモの巣みたいな世界でした。

何かを選んでいる私、に続いている道と、何かを選ばなかった私、に続いている道。

ありとあらゆることが、選択、なんです。

それに加えて、家族と一緒にいたり、友達と過ごしたりしたら、

このタイミングで、娘Aが〇〇と言う/言わない、とか、これまた別の絡みの

新しい展開もあるわけです。

なんだか、とても複雑なパラレルワールドでした。

 

つまり、この映像は、私に何を言いたかったのでしょう。

小さなことも譲らず、妥協せず、自分の本当の気持ちで選び続けて行ったら、

振り返った時、自分なりにとても満足できる生き方ができている、ということに

なるのでしょうか。

自分の心から離れていく道だって、存在し得るのです。

それを決めるのも、自分、ということ。

娘にかける一言も。主人にする何か小さな行動も。

 

さて大変。

2番目の娘がパソコンの近くにやって来ました。

もう止めましょう、の合図です。

 

 

読んで下さってありがとうございます。

 

自信がなかったり、落ち込みやすいHSPについて考えてみる

こんにちは。

白い空で、空気はもんわりと張っていますね。

台風が近づいてきているからでしょうか。

 

今朝は歯医者へ行ってきました。

 

いつも思います。

あー私、この歯医者の椅子が欲しい!と。

 

深く腰掛けて、背もたれを倒され、頭の位置も低くされ。

目の上にはタオルを載せてくれます。

椅子全体に施されたクッション?は、からだをぴたっと包んでくれるようです。

硬すぎず、柔らかすぎず(3びきのくま、みたい)。

 

そうやって、何も見えない状態で、私の周りで、

歯科助手の方が器具を用意するカチャカチャいう音、先生が近づいてくる気配、

隣から聞こえてくる話し声。

意識がぐわーーっと、自分だけ、になります。

瞑想しているみたい。自動的に。

いつも、タオルの下では、私はぼーっと、というか、うっとり、というか、

不思議な状態になっています。

 

 

さて、では、本題へ行きましょう。

 

HSPの陥りやすいところを、私なりに考えてみます。

どうして自信を持てないのかな。

どうして、時々、落ち込んでしまうのかな。

私もそうでしたから、苦しいのも知っていますし、わっと泣いたりもしました。

 

さて。

どうやって話して行ったらいいでしょう・・・。

 

あ、私(もしくは僕でも、俺でも、いいです)、HSPの気質があるわーと

自覚している方。

うーん、よっぽどのラッキーガール・ラッキーボーイでない限り、

育ててくださったご両親は、HSPとはなんぞや?HSPの気質とは?というものを

理解していない、と思います。

イメージとしては、キリンのお父さんとお母さんの元に、

キリンの外見をしたカバの赤ちゃんが来た、

みたいな感じです。

キリンのお父さんとお母さんは、キリンの赤ちゃん、と思って接し、いろいろなことを教えます。キリン的に必要なことを。

キリンの外見をしたカバの赤ちゃんは、キリン界とはこういうものなんだ、と

思って、必死についていきます。

でも、心の中では、うーむ、何かが違う・・・・・・・と感じます。

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HSP気質、とは。

心がゆらゆらしやすかったり、

小さなことが気になって、うまく乗り越えられなかったり、

人の気持ちがわかり過ぎるほどわかってしまったり、

特定の感覚が鋭敏だったり(視覚、味覚、聴覚、嗅覚などです)、

人の中にいると、どっと疲れてしまったり、

自動的に気を配り過ぎてしまうことがあったり、

大きな音や強い匂いが苦手だったり、

争い事やケンカの場面に耐えられなかったり、基本優しい心を持っていたり・・・・・

みなさんもよくご存じだと思います。

 

集団の中で、自分だけ浮いている感じがしたり、

大多数がいいね!と言っていることに

うーん、・・・いいか?と実は思ってしまっていたり。

無駄に群れたくなかったり。ひとり時間がないと崩壊しそうになったり。

嘘ついている人が透けて見えちゃったり。

 

でも基本、「善」の考えが強い気がします。

そして、心のひだが人よりも細かくて、多い、結構精密なマシーンだと思います。

 

今、なんだか生きづらい、とか、なんだか苦しくなっちゃう、と感じるHSPの人には、

以下の原因があるのではないかと思います(私見です)。

 

物心ついた頃、幼少期、子供の頃、まあそういった時期に、周りの大人たちに

「気にし過ぎだよ」「そんなことで泣かないの!」「細か過ぎだなぁ」等々

自分の素直な感覚(悲しかった、寂しかった、これが嫌だった、これが気になった等)を表明した時に、

それをそのままの状態で受け止めてもらえなくて、

むしろ、否定的な反応をされてしまった。

 

→自分が感じること、そう感じた、ということは、否定されるようなことではなくて、

もうそのままで正解だと思います。

 

もう一度言います。

感覚・感性は否定されるものであってはいけないのです。

 

 

例えば、ママがお話聞いてくれなくて、悲しかったの、と娘は時々言います。

娘は、私(ママ)が彼女のお話を聞いてくれなかったから、「悲しい」と感じた、のです。娘がそう感じた、その感性に、いいも悪いも、否定もありません。

そうかー、ごめんね、悲しかったよね、そうだよね、ママったら、

お皿なんて洗っちゃって、全然お話聞いてなかったもんねー、と全面的に

そのまま受け止めてあげます。

 

子供の頃に、悲しくて泣いた時、「もう、泣かないの!」とか、「こんなことですぐ泣くー・・・・」とか、言われていた方(でも親御さんも無意識です)。

知らず知らずのうちに、自分の感覚(悲しいと感じた)を全面に(素直に)出したら、どうやら世界(この世)ではダメなようだ、と勘違いし始めます。

そうやって、ここで生きていくためには、生き抜くためには、

自分の感性丸出しでやっていたら、どうやらダメみたいだね、と思い始めます。

これがエゴとして、ぺとっと、本来まっさらな魂にくっつきます。

(エゴには必要なエゴと不要なエゴがあると思っています。

処世術、みたいなものなのかなぁと。)

 

小さな子供にとって・・・・。

親、というのは絶対です。子供の中で、世界観のすべては、親なんです。

親がダメといったら、この世ではダメなんだー、と思ってしまうのです。

親の世界観を、子供は全力で完全コピーするのです。

 

このぺとっとくっついた後付けのエゴ(感じるままに感じたらダメだよー)に

気づかない人も、たくさんいると思います。

そういう人はHSPではありません!

 

このぺとっとくっついた後付けのエゴと、本来の自分の感性・感情との

間にギャップがあるのを感じる方、

心の中に、2つの声があって、どっちを選んだらいいのかわからなくなって、

無性に閉じこもりたくなったり、定期的に自分を見失ったりしてしまっている方、

そういった方が、自信をなくしてしまっているHSPの方たちなのかなぁと思います。

 

生んで育ててくれた両親を否定したらダメだよーって感じる方もいるかもしれません。

たまたま、お父さんやお母さん、という血縁関係があるけれど、

ぐわーっと引いて世界を見てみたら、

お父さんやお母さんも、一人の人です。

間違えたり、知らないことがあったり、何かが得意だったり、不得意だったりする、

普通の人、です。

感謝することと、考えや価値観を鵜呑みにするのは違います。

 

 

自分の感覚を丸出しにしたらダメなんだよね、と勘違いしている限り、

自信がないループを回り続けると思います。

よっし!せめて私だけは、最低限自分の感覚の味方だからね、

と自分で自分を全肯定してあげたら

きっと気づくと思います。

お腹の中からじわーんとあたたかくなります。

それが「自信を持つ」という状態です。

 

読んで下さってありがとうございます。

生き物たち

こんにちは。

今日もじりじり暑いですね。

私が小学生の頃、一番暑い月は確か8月で、それでも最高気温32度、とか

31度、とかだった記憶があります。

それから30年近く経って。

最高気温は35度やら36度やらも頻発で、

途中、外国で過ごした10年はわかりませんが、

確実に、日本は気温が上昇している、と感じます。

あの頃は、熱中症なんていう言葉はなくて、

まだかわいらしい日射病、という言葉でした。

 

私は関東に住んでいますが、ある時、沖縄の那覇市の最高気温よりも、

関西や関東の最高気温の方が高くて、

あー暑いのが、どんどん北の方へ移動してきているのかなぁとも思いました。

今まで梅雨のなかった北海道も、今年は梅雨前線が北海道の方まで張り出していましたよね。

 

今、熱帯地方で採れているバナナも、この先、沖縄や九州でも採れるようなったり、

植物の生息地や、野菜、果物の栽培地にも変化が出てくるのかなぁと思ったり。

 

これまでのツケなのか、それとも、地球の変化というか、進化なのか・・・。

私にはわかりません。

 

さて。

今日は生き物のお話を。

森が近くにあったり、緑がまだまだたくさんあるところに住んでいるので、

日常、虫に遭遇する率は、普通に高いと思います。

蟻やダンゴムシ。てんとう虫やバッタ、みつばち、いろいろな種類の蝶々。

 

 

これまで、不思議な出会い、というか、え?なんでこのタイミングー?という生き物との出会いがありました。

ある時。ごはんを食べ終えて、お皿を洗い、台所を掃除していた時。

ふと、横を見たら、食器の水切りの下に、なぜかクワガタが。

ク、クワガタ?なんで、いや、どうやって家の中に入ってきたの?え、えええ?

と、ただただびっくりしました。

 

別のある時。今は5歳になる娘と夜のお散歩へ出かけて、近所のお家の庭にある

びよーんと垂れ下がった植物(蔓?)を、ふざけて引っ張った瞬間。

どさっと何かが落ちてきました。

私の人生で初めて見た、トノサマバッタ

図鑑でしか見たことがありませんでした。5センチくらいの大きさで、

トノサマバッタという名前に見合う風格でした。

うわー初めて見たよ。うれしいねぇ。会いに来てくれたんだね、と娘と話して、

さようならをしました。

 

また別のある時。

換気扇から何かがどさーっと落ちてきました。

ご、ごきぶりー?と思いましたが、勇気を出して、携帯のライトで照らしてみたら

巨大なムカデでした(おえーー)。

からだは緑で、足は赤の、それはもう、本格的なムカデです(ヤスデという小型のかわいいものじゃありません)。8センチとか、10センチはあったと思います。

 

虫とは違いますが、また別のある時。

夜、主人と娘2人と、私で、コンビニ散歩というものへ出かけた時。

(コンビニ散歩は、5歳の娘がつけた名前で、歩いて15分くらいの一番近くのコンビニまでお散歩がてら行って、そこでお菓子を買ってもらう、というものです。

ピンク色のらせん状になったゼリーやら、ぶどう臭が強烈なお菓子やら、子供が大好きそうな、且つ、健康に悪そうなお菓子を買ってもらうのです)

雨が降った後で、道路は濡れていました。

街灯はありますが、住宅地なので、全体的にうすぼんやりした明るさでした。

はっと行く先を見ると、おにぎりぐらいのサイズの何か、が目に入りました。

私はとても目が悪いですし、度が強過ぎると、頭が痛くなるので、

眼鏡も結構ぼんやり気味に設定してあります。

なぜか、瞬間的に、「生き物」とわかり、なぜか瞬間的に「カエル」とわかりました。

(自分の中で)

 

でも、不確かなので、

「わ。待って、何かいる!え。待って、カエル?」とみんなに聞いてみました。

こういう時、私は止まってしまいます。主人は、ぐいぐい行って、真実を確かめに行ってくれます。

 

本当にカエルでした。

それも、本当に、おにぎりサイズの大きなガマガエルでした。

これも、人生初のガマガエルで、図鑑に載っているような、立派なカエルでした。

道路の真ん中にいたので、

「危ないから、こっちに来てー」と、隅の方へ誘導しました。

車に轢かれてしまったら可哀想です。

重そうな、ぺっとん、ぺっとん、という音と共に、道路の隅まで来てくれました。

 

別のある朝。

子供たちを保育園へ送り終えて、自転車で家に帰っている時。

目の前を黄土色で鼻先が少し長い生き物がのそのそと横切りました。

そして、垣根のところに潜り込みました。

その横を、急ぎ足で通った男の人もいましたが、

その黄土色の生き物には気づいていなかったと思います。

(もちろん家に帰って調べました。正解はハクビシン、です)

 

 

数多くの、謎の出会い。生まれて初めて見ちゃったよ的な。

 

そしてある時、はた、と思いつきました。

こういう虫たち(鳥・動物)は、本当に、会いに来てくれていたのではないか、と。

 

5次元的視点で、これらの生き物を見てみると。

みんな神様のお使い、みたいな役割の虫たちでした。縁起の良い虫や動物たち。

カラスも、ハクビシンも、てんとう虫も、ムカデも、カマキリも、クモも。

コガネムシやアゲハチョウも。

 

それまでは、大丈夫な生き物とおえーっと拒絶する生き物といましたが、

私の目の前に現れる、ということは、みんな、何かを伝えるために私に会いに来たのでは?と考えるようになりました。

そして、小さな生き物(虫)にだって、ちゃんと命があるので、

勝手な判断や都合で殺してしまったら、ダメだよね・・・・と考えるようになりました。

 

人は、ヒトが、一番、と思っていますが、もしも、ヒトよりももっともっと

高等で、巨大な何かが動かす世界があったとして、

「うわー見てー、ヒトがいる、気持ち悪い、えい!(つぶして殺してしまう)」

と、ヒトが害虫的な扱いを受ける世界があったとしてもおかしく無いのです。

それと同じことを、たくさんの虫たちに私たちはしている、ということです。

 

やむを得ない場合もあると思います。

家の中に、スズメバチが間違って入ってきてしまったり。

でも、極力、殺さない方法を取りたいです。

 

窓を開けて、ごめんなさーい、お外へ行ってくださーい!とお願いすると、

結構みんな言うことを聞いてくれますよ。

 

読んで下さってありがとうございます。

感情を消化させる大切さ

こんにちは。

今日も盛大にセミが鳴いています。

洗濯物も素敵に乾きそうです。

 

さて、今朝のできごとです。

保育園に5歳の娘と1歳の娘を送りに行く時。

私は家の前から車道まで、自転車を押していました。

その後ろを5歳の娘が歩いて付いてきていました。

ある瞬間、5歳の娘がつまづいて、どてーっと転んでしまいました。

首から下げていた水筒からは、お茶がどんどん流れていきました。

 

どこが痛い?血が出ちゃった?手に穴が空いちゃった?膝を打った?

 

と私は声掛けをしました。

 

娘は、う、うわあああと泣いていました。

 

自転車を横に置いて、娘のそばに行き、どこかケガをしていないか、

確認をしました。

どこにも出血はありませんでした。

 

す、水筒がぁ・・・・・・・と娘は泣いていました。

転んだ時の衝撃で、水筒のふたがばしーんと欠けて壊れてしまったからです。

(数か月前に、私が水筒を落としてしまって、ふたにひび割れができてしまいました。

でも、まだ使えるから、大切に使おうね、と使っていた水筒でした)

 

涙を拭いて、とりあえず、自転車に乗せて、保育園へ向かいました。

自転車で走っている途中、

転んじゃったのが悲しかったの?と私は聞きました。

娘は、水筒がぁ・・・・・と、水筒のふたが壊れてしまったのが悲しかったようです。

 

保育園へ着きました。

同じクラスのお友達は、もうたくさん集まっていました。

 

娘には、さあ、お仕度しようね、と声掛けをしました。

彼女の顔を見ると。

ゆらゆらしているのがすぐにわかりました。

ゆらゆらしているのは、彼女の心です。

 

娘は私に、泣きそうな顔で、

「今日は早お迎えして・・・・。」と言ってきました。

(早お迎えは、いつもよりも、早い時間にお迎えに行くことです。

お昼寝の時間の前、だったり、おやつの時間の前、だったり。

早お迎えは、ちょっとだけ特別な感じで、みんなが、いいなーという

反応をしてくれるのです)

 

「ちょっと疲れちゃった?」と私は聞きました。

相変わらず、ゆらゆらしているのがよくわかりました。

 

ゆらゆらする時。

自分もすごくよくわかります。このゆらゆら。

今にも泣きそうなのに、必死に泣かないで外の世界にがんばって立とうとする時、

この、すごいゆらゆらになります。

自分の中のコップには、表面張力で、ぎりぎりのところまでお水が入っているのです。

最後の一滴が、ぽちょん、と落ちたら、もう、うわーーーっと泣く、あの

ぎりぎりの線の時です。

 

その時、同じクラスのお友達が、娘に話しかけました。

「ねぇねぇ、どうしたの?〇〇(娘の名前)ちゃん?」

 

今回は、それが、最後の一滴になりました。

娘は、う、う、う、うわあぁぁぁと激しく泣き出してしまいました。

 

周りの先生やお友達は、??????ですよね、完全に。

 

先生に、ちょっと、お話してきますね、と伝えて、

みんながいない廊下で娘と話をしました。

 

う、う、うわぁぁと相変わらず、娘は堰を切ったように泣いていました。

話さなくても、十分、わかりました。彼女がどうして泣いているのか。

 

私と娘、この2人だけだったら、話をしなくても、わかってしまうことが

たくさんあります。どうして泣いているのか、何が嫌だったのか。

どういうポイントで、心が反応してしまうのか。

いろいろと、わかってあげることができます。

でも、常に常に、私は娘と一緒にいてあげることはできません。

彼女には、自分のお友達との世界があって、保育園という世界もあって、

周りにいて下さる、先生方との関係もあって。

外の世界で、うまく生きていくためには、

自分の気持ちをちゃんと話す必要があります。

 

それの練習をしてもらうためにも、私は、娘に聞きました。

「何がとっても悲しかった?」

 

娘は、わあわあ泣きながらも、一生懸命、

す、す、す、水筒がぁ・・・。水、筒がぁ、こわ、こわ、壊れちゃってぇ・・・・・と

伝えてくれました。

 

可愛いなあと思いました。

自分の水筒が壊れてしまったのが、とても悲しかったと。

もしかしたら、自分が転んでしまったから、壊してしまった、と感じて、

あんなにも泣いていたのかもしれません。

 

だから私は、

「ママがどーんって落として、ふたにひびが入っちゃったけど、

それでも大切に使ってくれていたでしょ?

もしもね、〇〇(娘の名前)がふざけてぼーんって水筒を投げて、ふたを壊しちゃったのだったら、叱ると思うよ。

でもね、誰も転びたくないけど、時々転んでしまうことがあるのよ。

それで、転んじゃって、水筒のふたが壊れちゃった、っていうのは、事故、ってことだよ。誰も望んでいないけど、起こってしまった、っていうことは、事故なの。

水筒さんも、今まで大切に使ってくれて、ありがとうございます、って言っているよ。

だから、今までありがとうございました、って、新しい水筒を買っても

いい時なんだと思うよ。」

と、彼女に伝えました。

 

娘は、それで、やっと気持ちの整理ができたようでした。

思い切り泣いて、水筒を失う悲しさは、消化できたようでした。

すっきりした顔に戻って、先生のところへ行きました。

 

この朝のできごとを見て。

感情をちゃんと、消化させることって、やっぱりとっても

大切なんだなと感じました。

 

帰り道、自転車をこぎながら。

子供の頃って、何かあって、うわーって泣いた時、

途中から何がこんなに悲しくて泣いているのか、自分でもわからなくなって、

でも頭の中というか、心の中で、あああ・・・あの時のあれも悲しかったー、

あの時の、これも悲しかったーと、そう言えばあの時のことも・・・・・・・と

ささやか過ぎて、泣くまでには至らなかったけど、

それでもやっぱり、ちゃんとは消化できていなかった悲しいことを総まとめにして、

この際、全部をまとめて泣いてしまえーみたいにしていたのかもしれないなと

思いました。

きっとそうやって、小さな悲しみを消化させていたのかもなぁと。

 

大人になってからも。

無意識に選んだ映画で。ううう・・・・と泣いてしまうことがあります。

自覚していなかったけれど、でもきっと、奥底では、

私、泣きたかったんだ、と。

泣くと、気持ちがパリッとしますよね。すっきり。

 

だから、もちろん、時々泣くことは、必要なんです。

大人も男も女も。

 

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