日々のこと 感じたこと

HSP/子育て中の私の備忘録です

争わない生き方

こんにちは。

子供たちのいない身軽さの中に、

相変わらずいます。

朝起きて、空っぽの1日で、

さーて、何しようかなあ!

お天気もいいし、また散歩しちゃう?

と完全にフリーな状態。

思いつくままに、行動できる身軽さ。


でも。

昨日の夜、一瞬、

結婚相手が、独断で実家の方へ引越しする、とか

言い出したら

(私たちは建設的な話し合いというものができないのです)

きっと私は付いていかないし、

今の私には経済力が全然ないので

別れたとしたら、

自動的に子供たちと離されてしまう、という

恐ろしい考えが降ってきました。


でも、急いで頭を振って、そんな

恐ろしい考えを消し去りました。


危ない、危ない。

思考は現実化するので、楽しいことを

考えて、楽観的に生きていきましょう。

どうにか、なる!


大丈夫、大丈夫、神様はちゃんと見ていてくれるし。


さてさて。

争わない生き方。


まだまだ若い頃は、争ってばかりでした。

自分の価値観だけが正しいと思っていて、

どうにか相手の考えを変えてやろうと思っていたり、

この正しさを気づかせなくては、だったり。

論破してしまったり。


でも今は、それは間違っていたとわかります。


ずっとずっと前は、ひどく勘違いしていて、

私は、みんな、同じなんだ、と思い込んでいました。


でも。本当は。

みんな、みんな、みんな違っていて、

考えも、感覚も、何を大切として、生きているのか、も、心の傷も、嫌だったことも、嬉しいと感じることも、生い立ちも、みんな、

違っています。


時々、どこかの部分で似ているところが見つかったり、

同じような経験をしたことがあって、気持ちがわかる、というような

一瞬、嬉しくかする部分があっても、

全く同じ人はどこにもいない、という前提です。


それは、みんなが違っていてよし、という

ことが前提なのです。

私たちはみんな、形の違うもの◻︎やら△やら

○なのです。


(多分、みんな同じでなくてはいけないんだ、という価値観は、学校システムで強固にされてしまうのでしょうね)


だから、私が正しい、いやいや、僕の方が合っている、とか、

そもそもその見方自体に問題があるのです。


ある事柄に関して、

私はAと思っているけれど、

相手はDと思っている。

私がAと思うのは私の勝手だし、

相手がDと思っていることも、相手の勝手なのです。

それは、正しい、とか、合っている、とか、AをDに変えなくちゃ、とか、Dと思っている自分は間違っているのだろうか?とか

そういうことでは全くないのです。


ただ、そのままに。

AはAのままに。

DはDのままに。

静かに、そのままを、そのままに置いておく、というか。


本当は、私の奥の奥の方は、私に言い続けてくれていました。

こっちが正しい、君が間違っている、とかの価値観の綱引きみたいなのは無意味だし、

論破し終えた自分の中に、

虚しさ、というか、相手を変えさせてしまった、という少し苦い気持ちを

いつも私に感じさせていました。


あの頃は、きっと、自信がなくて、

自分の主張を通さないと、自分を保てなかったのだと思います。

無駄に口出しをして、相手の領域にも、

ずかずかと踏み込んでしまっていました。


そして、違う価値観を受け入れる、ということも、ちゃんとは理解できていませんでした。

自分(だけ)が正しい、と思い込んでいたので、

他の価値観の受け入れ方?そもそも

違う価値観を受け入れるってどういうこと?と混乱していました。


いつからか、私の中の小さなお盆がひっくり返って、

論破しよう、という自分から

相手が違っていても、それでいいんだ、という自分へと変わることができました。


執着していたのだと思います。


そして、同時に、ずっと前から、本当は争いたくない、という気持ちが自分の中にあることにも気づきました。


どっちが勝ちで、どっちが負けで、

どっちが正しくて、どっちが間違っている。

そんなこと、したくないし、

そんなの、もう、どうでもいい、と。


私も○だし、相手も○、

お互いをお互いの正解の中に、そのままに

置いておける地点、考え方を見つけよう、と。


結局は、ケンカ、とか、言い争いとかは、

この、価値観の綱引きをしているだけ、なんですよね。


綱引きをする見方から離れたら、

私も正解だし、相手も正解、

つまり、違う価値観を受け入れる

ということなんだ、とわかりました。


私がここまで行くのに、もうひとつ間違ってしまったことは。


自分の価値観を、相手のものと同じにしなくてはいけないんだ、と思ってしまったことです。

相手と同じでない自分がダメなんだから、

変えなくちゃ、と。

(すごい自分いじめですね)


でも、それも、ある時期が来たら、

ちゃんと、わかりました。


これだと、相手にとっては◎だけど、

自分がどんどん苦しくなるし、自分が消えていく、と。

 

私はヒツジで、相手はキリン。

ヒツジが毛皮を脱いで、肌を黄色くして、

茶色の模様をつけて、首を長くしてみても、

それは、違うのです。


ただ、ヒツジそのまま。私はヒツジ。

ただ、キリンそのまま。貴方はキリン。


(ずっと前は、違っているということさえも、とても悲しく感じていました。

多分、子供の頃から、ひどく、ひとりぼっちな感じがしていて、

どこかで、外側に、自分と全く同じ人がいて、自分をそっくりそのまま理解してくれる人が欲しい、いるはずだ!と、

思っていたのでしょうね)



同じでないこと、違っていることを、

ただ、そのままに

違っているんだなあ!と理解すること。


きっと、これが、違う価値観を受け入れる、ということなんだ、とわかりました。


心の奥底から聞こえていた、

争いたくない、という気持ち。


違っていることを、そのままに、

正誤は全く外して、見てみること。


違いがあるんだ、と、そのままに、ただ、認めること。


この見方ができるようになったら、

争う場面なんて全くないし、

みんなが、みんな、正解。

それぞれの正解を、それぞれ生きていれば、いいんじゃなーい?と。


私はそのまま。貴方もそのまま。

合うものは合う、し、

合わないものは合わない。

合う時は合うし、

合わない時は合わない。


合わないものに、合わせなくちゃ、なんて

思わなくていいし、

自分もそのまま。


こうして、少しずつ、少しずつ、

玉ねぎの薄皮をむくみたいに、

自分の不要な重い皮が剥がれて行っています。


読んでくださってありがとうございます。