日々のこと 感じたこと

HSP/子育て中の私の備忘録です

自分の心の観察

こんにちは。

また今日は蒸し暑い1日となりました。

気づけばもう8月も終わり・・・・。

毎年、9月10月11月12月は、

とんでもなくスピードアップして日々が過ぎて行きます。

それがあと少しで始まるなんて。

今年はもう少し、のんびりやって行きたいなぁと思います。

 

自分の心の観察。

 

この数日、自分の心がいつもと違うので、

じっくり観察してみました。

 

①なんだかとにかく疲れている

精神的、なのか、肉体的なのか、よくわかりませんが、

からだの力が軽く抜けているような。

さあ今日もやるぜー!みたいな気力がなくて、やる気もあんまり感じられません。

元気な時と、元気でない時。私たちは大きなリズムに乗って生きているので

仕方がないと言えば、仕方がないのですが。

 

そんな状態を数日過ごしていると。

からだの奥から、ざわざわざわっとした感じがやって来ます。

 

「いいの?いいの?こんなでいいの?」

「動かなくていいの?何か、しなくていいの?」

「有意義に過ごさなくていいの?何かの役に立たないと!」

「元気ないのはダメだねー」

 

こういう小さな信号がたくさんやって来ます。

そうして、それに名前を付けるとしたら

焦り、です。

 

焦り。焦り。

ドキドキしてきます。

 

自分で、自分を癒してきたつもりでしたが、まだ残党がいるようです。

そう、こうやって、少し調子が落ちてきたり、悪くなっている時に

残党は暴れ出します。

だから、チャンス!として、やっつけてやりましょう。

 

『何かをしなくていけないと思い込んでいる』/『無価値観』

残党の正体はきっとこれです。

何かしないと、ここにいたらダメだよ。有意義な時間を過ごして。

誰かの、何かの役に立っている?

こういうことを、ごちゃごちゃと、私の心に言ってきます。

 

何かをしないとここにいたらダメだよ、と思うこと。

これは、かなり根深く、そして根強いです。

 

でも。

本当は何もしないでも、ここにいて、いいのです。

ただ、そこにいるだけで、もういいのです。

誰でも、みんな。そこに、ここにいてくれるだけで、もうそれでいいのです。

 

何かしてもいいし、何もしなくてもいい。

どちらでもいいんだよーの地点です。


何かできるようにならないと(できていないと)、

ここにいたらいけないんだ、と思わせているのは

取り外すべきエゴだと、私は思っています。

 

もちろん。

自分が何かをして、それが誰か、だったり、何かの役に立っている、と

自覚できることはとても幸せです。

限りある時間、できるだけ、有意義に過ごせたら、幸せだし

充足感だって得られます。

 

人はきっと、何かの役に立ちたい!と

本能的に感じているものだと思っています。

無価値観から半強制的に突き動かされて行動する、のではなくて、

根源的、というか、もっともっと深い魂の部分で、

人は何かの、誰かの役に立ちたい、という愛を持っているのだと思います。

 

でも、いつだって、同じ、いい状態の心でいることはできません。

時には疲れたり、嫌な感情に襲われたり、人の心はぐにゃぐにゃです。

調子が昇りっぱなし、というものではないと、思います。

 

確かに、とてもつらいです。

やる気が出ない、元気があんまりない、静かでいたい。

どうしちゃったの?と思う私もいます。

でも、弱っている時も、ちゃんと、そのままを受け止めてあげようと、と思います。

 

ごちゃごちゃ言う声に従ってしまうと、

希望、願望をモチベーションにした動き(愛)、ではなくて、

焦りをモチベーションにした動き(エゴ)になってしまいます。

それは、×、というのは、よくわかっています。

 

だから、こんな時は、外は猛吹雪で動けない時の動物みたいに、

じっと、じっと、巣穴で雪が止むのを待つしかないのです。

心とからだが回復するまで。

 

②まだ傷ついているのに気付いたこと

昨日の夜、5歳の娘とお風呂に入っていました。

夜も更けていて、私の1日の疲れのピーク、自制心も落ちてきている頃でした。

私は、さかさかっとお風呂を済ませて、

早く娘をお布団へ運びたい、と思っていました。

 

しかし、5歳の長女は、石鹸のふわふわの泡を足の裏に付けて

スケートごっこを始めていました。

(あーーうーー。もう止めて!早く寝ようよー)と思っていましたが、

彼女の遊びたい気持ちも採用したいので、

少し、そのまま遊ばせていました。

でも、静かに、そろそろ、もうスケートは止めて、寝るお仕度しようね、と

伝えました。

でも遊んでいる彼女には、特殊な耳栓が付いているので(いつも・・・・)

もちろん遊び続けていました。

 

それを繰り返すこと何回か。

石鹸の泡を足して、スケートごっこはまだ続いていました。

 

ある瞬間。

私の中で、ぷちんとなって、お盆がひっくり返りました。

 

その時の自分の心は。

「どうして私の話を聞いてくれないの?」という悲しみでした。

でも同時に、その私の様子を冷静に見ている私もいて。

その時にはっとわかったのは、

小さい頃の私がまだ傷ついている、でした。

 

「私の話を聞いて」

 

瞬間的によくわかったことです。

小さい頃、私の話したいことをちゃんと聞いてもらえなかった、

それが、すごくすごく悲しかった。

一生懸命、伝えようとしているのに。話したいと思うことがあったのに。

でも、お母さんは聞いてくれない(忙しくて?余裕がなくて?)。

適当に、あしらわれた。向き合って欲しかった。

 

その、話をきいてくれない、という態度を

私は、自分のことを大切に思ってもらえていない、と感じている(感じていた)

ようです。

そこが、まだまだ癒されていなくて、癒しきれていなくて、傷ついている。

そんなことが、しゃっとわかりました。

 

だからこそ。

娘が話を聞いてくれなさ過ぎたり、主人が私の話を上の空で聞いていたりすると、

「ま、仕方ないかー!」よりも、

奥底から、大切に扱ってもらえていない、級の深い悲しみに

襲われていた。

そんなことが、わかりました。

 

傷口に、さらなる塩水をかけてくれる役目、だったのです。

でも、気づきました。

世界の目的は、私にその傷を認識させることです。

塩水かけ係は、娘だったり、主人だったり、なわけで。

 

自分が、思っているよりも、もっともっと、

私は傷ついているんだ。

そんなことを再認識しました。

 

気づいたら癒す。表面化してきたら、癒す。

自分の心に正直に。痛みと、悲しみと、チクッと感が

私に、この部分が傷ついていますよーと、教えてくれるのです。

 

なんだかこうして、ゆっくりと、

丁寧に、自分のありのままの心探し、なわけです。

気づいてあげることと、許してあげること、認めてあげること、

広げてあげること。

奥が深いなあと思います。

 

読んで下さってありがとうございます。

誰かの役に立ちますように。