日々のこと 感じたこと

HSP/子育て中の私の備忘録です

可愛い子には旅をさせよを実感したこと

こんにちは。

今朝は5歳の娘を皮膚科へ連れて行きました。

2日ぐらい前から、頰が赤くぷつぷつに。

何か変なもの食べさせたかなあ、

蕁麻疹?と思って様子を見ていましたが、

痒がって可哀想なので、受診しました。


原因は、花粉?とのこと。

今お世話になっている先生は、

とても信頼出来る方です。

(よっていつも混んでいます)


娘の肌を見て、皮膚が薄いのね、

花粉の影響じゃないかと思いますよ、とすぐに

教えて下さいました。


うーむ。そうか。

そう言えば、私も、この1週間ぐらい

何だか肌が敏感で、ちくちくしているなあ。


敏感なみなさんも、どうか花粉には

お気をつけ下さい。

洗濯物をお外に干すのも、一時的に止めた方がいいかもしれませんよ、との

アドバイスもいただきました。


ご参考までに。


さてさて。


下の1歳8ヶ月の娘が保育園に通い出して、もうすぐ1年になろうとしています。

本当に早いものです。

去年の今頃は、お布団カバーや、お給食のコップ入れなど、

ミシンでがたがた縫っていたなあ、と思い出しました。


次女は、生まれた時から、不思議な存在でした。

私は、長女の時は、頑固な逆子だったので、帝王切開で出産しました。

なので、次女も、自動的に帝王切開となりました。


恐らく、自然分娩をされたお母さんたちは、

出産後、数時間したら、初めての授乳をすると思います。

私の場合は、出産してすぐに、次女と一瞬対面しましたが、

麻酔が切れて、自分でお手洗いに行けるようになってから、

新生児室へ行って、授乳やお世話を開始する、という感じでした。

なので、たっぷり24時間以上は、

母の体力回復に専念しました。


出産後の一瞬の対面後、

初めて看護師さんに、次女を部屋まで連れて来ていただいた時。


私が「ごめんねー。(他のお母さんたちは新生児室へ来ているし、他の赤ちゃんはおっぱいももらっているし)お母さんがいなくなっちゃったと思っちゃった?」と娘に言った時。


(この声は)あなただったのね!

という顔をしました。


うわあ。お腹の中で、きっと、ずっと、私の声を聞いていて、生まれてから、この声の持ち主を探していたんだわ…と直感的にわかりました。


次女を抱くと、本当に不思議な穏やかな気持ちになります。

しーんとしていて、でも全然寂しい感じがなくて、

広くて、静かな森の中にいるような、

もしくは、

凪で穏やかな海みたいな、

そんな気持ちになります。

静かで平かで穏やかな。


最初からそんな感じだったので、

次女の感じていることが、普通に私にも流れてくる、そんな感じです。


大きな音も嫌だし、騒がしいところも嫌だ、

でも、お外へ連れて行くと、

ちゃんと空気を読んで、ものすごく静かにしていてくれます。

電車の中や、待合室など、外で次女が騒いで大変だった、という記憶は、全くありません。


でも、それは、逆を考えると、

周りの大人たちがうまく察してあげないと、次女は頑張り過ぎてしまう、ということです。


だから、赤ちゃんの時は、

なるべくなるべく、次女が疲れ過ぎないように、(自動的に)頑張らせ過ぎないように、

注意深く行動していました。


そんな彼女が、9ヶ月の時に、

保育園に入所しました。


私が自分で保育園入所の希望の紙を出したくせに、いざ、入所決定の通知が来た時は、

正直、おーどうしよう!と思いましたし、

ざわざわしましたし、ちょっと泣いたりもしました。

(保育園に入所できなかった方には申し訳ないですが)


生まれてから、ずーっと、一緒にいたし、

まだまだ小さな、9ヶ月のぐにゃぐにゃの赤ちゃんを、保育園に預ける…ということ。

私はひどいお母さんなのかなあ、と

自己嫌悪みたいな気持ちになったり、

罪悪感がつきまとったりしていました。


でも。

この待機児童がたくさんいるご時世で、

すんなり入所できるのも、運命だし、

それに、

生まれた時からすごく感じていることですが、

この子は光の子供、だし、

私の手元から離れて、お外で彼女なりに

何かお仕事する役目があるのだろう!と

思ってからは、気持ちが変わりました。




次女は、違う環境になると、慣れるまで時間がかかる、

騒がしいところが苦手、

そして、注意してあげないと、頑張り過ぎてしまう、というのが

よくわかっていたので、

慣らし保育は、かなり時間をかけました。


他のお母さんたちは、1週間後、10日後には、もう普通に朝から夕方まで預ける!

という感じでしたが、

先生には、娘の様子を見ながら、決めて行きます、と伝えました。


他のお友達は、ママのいない慣れない環境の下、眠いのに寝付けなかったり、泣き喚いたり、

なかなか大変でした。

そして、先生も、そんな子供達に対応しようと、

全然余裕がなくて、わさわさ、ばたばたな状況でした。  


娘は、おもちゃや、他のお友達と遊びつつも、少し不安になると、私の膝のところへ戻る、というのを繰り返して、

毎日毎日、少しずつ、慣れて行ってくれました。

他のお友達が泣き喚いていても、

動揺せずに、私の顔を見て、安心して過ごしてくれていました。


他のお友達がお給食をいただく時間になると、

では、また明日、お願いします、と言って、2人で家に帰っていました。


娘にとっては、ママと一緒に来て、ちょっと遊ぶ児童センター?みたいな感じだったのかもしれません。


4月の3週目に入り。

他のお友達もだいぶ慣れて、落ち着き、

先生もだんだん上手に対応できるようになった頃。

ようやく、では、2時間後に、お迎えに来ます、や、

お給食が終わる頃に、お迎えに来ます…と

娘をひとりで預ける時間を延ばして行きました。


4月の4週目になりました。

娘は、私と離れている時間も

泣いたりせずに、楽しく遊んでいるようでした。


うーむ。さて。




最後の最後は。

やはり、私の気持ち、でした。


私の中に、パキッと娘と離れる決心が

まだついていないことに気づきました。


「あーこれは、私の問題なんだな」と。


娘は、最後の方は、きっと、

私に付き合ってくれていたのでしょう。


このままじゃ、保育園に預ける意味ないし、先生も、(私がうろうろしていたら)やりにくいだろうし、

私が、気持ちをしっかりしなくちゃ、と

心にばしっと決めました。


そして、その翌日から、

では、夕方までお願いします!と

先生に伝えました。



先生に娘の様子を聞くと。


慣れるまで時間がかかると言っていましたが、○○(次女の名前)ちゃんが、

一番、実は順調です!

他の子は、まだまだおんぶしないと眠れなかったり、泣いてばっかりですが…。


そうか!やっぱり。

子離れできていなかったのは、私の方だったのね。



保育園に預ける前は、

こんなに小さいのに、お母さんと離れたら可哀想!だよね、やっぱり…

と思っていました。


でも。

そうかもしれないし、そうじゃないかもしれません。


みんなママが大好きだけど、

でも、娘を見ていて思うのは、

保育園の先生に本を読んでもらったり、お歌を教えてもらったり、

おもちゃで他の子と遊んだり、

お外へお散歩行ったり、

みんなでお給食を食べたり、お昼寝したり…

とっても楽しそうです。

0歳児なりの、横のつながりもあったりして。


朝、保育園行くよー、と言うと、

自分で上着を持って来て、

「まだ行けないのかい?」みたいな顔をします。


お母さんやお父さん、おじいちゃんやおばあちゃん以外の人に、

おはようと声かけしてもらったり、

抱っこしてもらったり、

一緒に遊んでもらったり、

家の中で、ママとマンツーマンよりも、いいのかなあと、今は思います。


もちろん。

ずっとママと一緒、というのもいいです。


ただ、私は、どうしても行動がワンパターンになりやすかったり、

決まったような遊びばかりしていたり、

どうしても制限が付いてしまうような気がするので、

保育園に預けて、よかったなあ!と思っています。


子供はママと一緒がいい(に決まっている!)という価値観もあります。

特に年配の方たち(私の母も!)。


それも正解だろうし、

でも、それだけが正解ではない、と

私は思っています。


きっと、4月から子供を保育園に入所させて

お仕事復帰、というお母さんたちもたくさんいるでしょう。

たぶん、みなさん、心のどこかで、

いいのかな。これで、いいのかな?と

感じるのかもしれません。


0歳児でも、1歳児でも、2歳児でも、

どんなに小さくても、

ママと一緒、とは違う世界をきっと子供は持っているし、

なにより、とても楽しんでいますよ。


お母さんとずっと一緒がいい(と子供は思っているに違いない)と思っているのは、

実は、お母さんが子供と離れることへの不安があるから、かもしれません。


子供は、私たちが思っているよりも

強くてたくましいのです。


読んでくださってありがとうございます。

 

子供のごはん問題

こんにちは。

日中は穏やかな暖かさです。

着るものを1枚減らしても、そんなに寒くありません!

もうすぐ本当に春がやってきますね。


さてさて。


今日は子供のごはんについて、です。


私には5歳と1歳8ヶ月の娘がいます。


5歳の娘は、もっと小さい頃から、

中身はおじさん?おばさん?みたいな

食生活でした。


子どもって、カレーとか、オムライスとか、

ハンバーグとか、好きよね!と思って

作ってみても、

白いごはんはないの?やら、

カレーはごはんに乗せないでー、やら、

ケチャップ味のごはんは全然食べてくれない、やら、

肉は嫌なのよー、やら、

なんだか激しく肩透かしを食らう結果でした。


なので、いつからか、私は

「おじさん(みたいな)ごはん」を作るようになりました。

白いごはんと、おみそ汁と、肉じゃがや、切干大根煮、おひたしや、焼いたお魚やらを。


でもある時、確か、娘が4歳の頃だったと思いますが、

ごはんの進み具合が突然、がくっと遅くなりました。

そして、

「あまり食べたくないオーラ」を撒き散らしていました。


むむー。どうしよう。


それまで、娘は普通に「おじさんごはん」を食べてくれていました。

でもある時から、娘の中で、ぱたっと、何かが変わってしまったようでした。


ごはんを食べ始め、途中からおしゃべりばかりして、全然はしが進みませんでした。


口に食べ物を運んで食べさせてみたり、

ほらほらーおしゃべりばかりでごはんが止まっているよーと、声掛けしてみたり。


45分、50分、1時間…テーブルについている時間が

どんどん長くなってきました。

日に日に。


保育園から帰って来てからのおやつの量も減らしてみました。

なるべく、彼女の苦手な食べ物を減らしてみたり、できるだけの工夫もしてみました。


でも。

状況は一向によくなりませんでした。


私もだんだんとイライラしていました。


夜ごはんの後には、お風呂にも入れなくちゃいけないし、もちろん後片付けもあるし、

もう少し、がががっと、食べられないのかねー?と。


娘とのごはんタイムが、だんだんとストレスになっていました。 


うわあ、もう…

どしたらいいのさ?となっている時に、

偶然、読んだ本があります。


「ジャムつきパンとフランシス」


フランシスは、他の家族がはんじゅくたまごを美味しく食べている時、

たまごはブルンとしていて嫌い、と言って、

ジャムつきパンだけを食べました。


お母さんが晩ごはんに、こうしのカツレツとさやいんげんと、じゃがいもを作ってくれた時、

はじめてのものは嫌だと言って、

またジャムつきパンだけを食べました。


お母さんが(新しい食べ物を試させるつもりで)、お弁当にチキンサラダのサンドイッチを入れてくれた時も、

お友達のアルバートと取り替えっこをして、

またまたジャムつきパンを食べました。


(どうやら、フランシスは、

ジャムつきパンにどハマりしているのです。)


フランシスのお母さんは、すごいのです。

そんな娘の食生活に不安を持ったりしないのです。

ある意味、全然ブレないのです。


フランシスに、無理矢理たまごを食べさせようとしたり、

うしのカツレツを勧めてみたり、

アルバートとお弁当の中身を取り替えっこしたことを叱ったりしないのです。

ジャムつきパンばかりでいいのかしら…と悩んだりもしません。


そして、全くもってブレずに、

学校から帰って来たフランシスのために、

おやつにジャムつきパンを用意しておくのです。


そして、その晩のごはん。

トマトソースをかけたスパゲッティミートボール。

他の家族にはそれを取り分けるのに、

フランシスには、初めからジャムつきパンを

あげました。


とうとうフランシスは、泣き出して、

私にもスパゲッティミートボールをちょうだい!と言うのです。


それからは、やっと

他の食べ物も食べるようになったようです。


むふふ、これは、

お母さんの勝ちですね。




娘のごはんについて、軽く悩んでいるタイミングで、

このジャムつきパンとフランシス…。


ふーむ。


私は、自分の中に、

娘にこういうものを食べさせておきたい(いわゆる、安心なもの?)という固定概念があったことに

気づきました。


あとは、好きなものばかり食べさせたら、どうにかなってしまうかもしれない!という訳のわからない不安も。


でも、そこが見えたので、次の日から

「夜ごはん、何が食べられそう?何を食べたい?」と、娘に決めてもらうことにしました。


おいもだけー、という日。

ピッツァ3枚だけー、という日。

納豆ごはんだけー、という日。


最初は、私の中で、

気持ちが軽くガクガクしていました。

(栄養学的に見て、どうなの、これ!と)


でも、フランシスのお母さんを見習って、

あれこれごちゃごちゃ言わずに、

娘が所望したものだけを用意して出すようにしてみました。


娘の「食べたくないオーラ」は消えて、

自分がリクエストしたものを

ぱぱぱっと食べて、ごはんタイムが終わるようになりました。


多分、そんな食生活が、

数ヶ月続いたと思います。


それから、少しずつ、少しずつ、また

以前の「おじさんごはん」を食べてくれるようになりました。


今は毎日おじさんごはんです。



その期間を通り過ぎて思うこと。


多分、娘は、自分の食べるものは自分で選んでみたい、という欲求と、憧れがあったのでしょう。

私が用意した晩ごはんを、自動的に食べ続け、もしかしたら、

少しずつ、彼女の中に、

「自分の気分とお腹の空き具合で、食べるものを決めてみたい!」という

気持ちが膨らんでいたのかもしれません。


あとは、自分の中に、

子どもたちにはこういうものを食べさせておきたい!という勝手で一方的なこだわり、みたいなものがあったこと。


そこを見事に、娘はぶっ壊してくれました。


でも、確かに。

私も、その日その日で、あーごはんが食べたい感じ!やら、

今日はちょっと鶏肉な気分、やら、

ごはんは重いから麺類が食べたいなあ!やら、その時、その時で、きっと

私のからだが欲しているものを「食べたい」と感じていると思います。


それは、5歳の娘も然り、

1歳8ヶ月の娘も然り。


いくら、私が彼女たちの「お母さん」でも、

彼女たちのからたが何を欲しがっているのかまでは、完全にわかり切ることはできません。

それは、それぞれの娘が自分のからだに聞くことだと思いますし。


長女は、そんなふうにして、

私のくだらないこだわりやら、固定概念みたいなのを、

ぐちゃぐちゃに壊してくれます。


そして、平らになった道の上を

次女がのっしのっしと歩く、みたいな感じです。


だから、次女に関しては、

OKOK、もう何をされても平気ですからね、という感じで接することができるのです。


次女は、目下、

納豆ごはんとおみそ汁だけ、という食生活になっています。

お野菜やお魚は、イヤイヤと首を振って食べてくれません。


でも、いいのです。焦ったり、不安に感じたりも、しません。


子どもにはそういう一定の時期みたいなのがあることは、もう知っていますし、

いつかは、そこから脱して、

また前のように、お野菜やたまごやお魚やお肉を食べる時が戻って来る、というのも

わかっています。


ごはんでお悩みの方に届きますように。


読んでくださってありがとうございます。


子供たちが教えてくれたこと

こんにちは。

今日も空は白いです。あー冬っぽい。


今回の冬は、結構青空が見えていたり…でしたが、

そうだった、そうだった、

冬の空は白くて、うすぼんやりと太陽がゆるく出ている、こんな感じだったと

今更思い出しました。


でも、うちの近くは、濃いピンクの梅、少し黄緑色がかった白い梅、そして、

レンギョウも咲き始めています!


気づけばもう2月。

よくがんばった(寒さに対して)…あともう少しで春がやって来ますね!嬉しい。



今日は私の子供について、書いてみようと思います。


私には5歳の娘と1歳半になる娘がいます。


子供。子供。


自分の子供。


子供って、本当に不思議な存在です。

今でも、あー私?私って子供いるの?みたいな気持ちになります。


今、思うこと。

彼女たちは、私の気づいていなかったエゴやら、考えの癖やら、生きづらさの思考やら、

ばしばし指摘して、私を鍛えるために、やって来たんだなあ…と感じます。


はっきり言って、鬼コーチです。


ぴしゃっと、定規で叩き、

否が応でも、ぐいっぐい、私の器を広げる役目。

そんなの無理だよーと思っていたことも、

巨大なペンチで、ぐいーーっと、

広げられ続けました。


母となってから、本当に、相当鍛えられました…。


親になった当初、いや、1年とか、2年ぐらいは、

本当に自分の闇というか、癖というか、エゴとの闘いで、

毎日が罰ゲームみたいな、

永遠に続く恐ろしい修行のような、

重苦しい気持ちでいることが多かったですが、

今は、(鬼コーチたちのお陰様で)

私の中も、さらさらさらーっと軽いものに

なり、楽しい穏やかな気持ちでいられるようになりました。



5歳の娘も、そして1歳の娘も、

とても強い何かを持っています。


「我が強い」という言葉は、何かネガティブなものを感じますが、

彼女たちの中に、

「ブレようがない強い芯」みたいなものが見えます。


このブレようがない強い芯は、

きっと、真理みたいなものなんだろうなあ、と思います。


「○○ですが、何か?」みたいな凜としたものです。


きっと。今生まれている子たちは、

そういう光り輝く人たちなんだろうな、と感じます。



彼女たちは私に見えていなかった真理を伝える役目。

そして、私も、彼女たちがまだ見えていない、知らない真理を伝える役目。


お互いに、協力して、情報交換みたいなことをしています。


そして。

よく一般に言われているように、

子供だから…というのは、彼女たちには通用しません。


子供だから、親の言いなりにさせてもよい、とか、

親の都合で振り回す、とか、

親の意見を勝手に押し付ける、とか、

そんなの、本当に、通用しません。

第一、とても、失礼です。



彼女たちは、からだは小さくて、

この世界に生まれてから、まだ数年ですが、

でも、1人の立派な人たちです。


だから、

当然ですが、

尊重されることを望みますし、

意見を聞かずに勝手に何かすると、ものすごい勢いで主張します。

ごまかしも効きません。


でも、人として、当たり前のこと、ですね。


誰だって、尊重されたいし、

尊重されることを知っていれば、

自然と他の人のことも、尊重できるのです。


そして、これは、私がよく

5歳の娘から言われていたことですが。


「ケンカしないで!」



今ならよくわかります。

ケンカしないで。

つまり、対立、しないで!ということです。


みんながみんなを、尊重していれば、

対立、という構図は、出来上がらないのです。

対立する、衝突する、ということは、

自分の都合や考えや価値観を盾にして、

剣を振りかざしているということです。

そこには、

相手への理解や、尊重の気持ちが欠けてしまっているのです。


私は、娘たちを通して、学びました。

無用な綱引きなんてする必要はないこと。

(どっちが正しいやら、誰があっている、やら)


相手を尊重して、

自分と合わないんだな、と思う部分は、

あれこれ、ごちゃごちゃ言わずに、

さっと、すっと、

退避すればいいんだ、と。


そうすれば、対立ではなくて、

お互いを尊重する調和の世界にいられるのです。


彼女たち。

すごいパワーです。

そして、ものすごい奔放です。


自由奔放。

きっとこれも光り輝く人たちの特徴なのでしょう。


からだは小さいけれど、とても

たくましい存在です。



読んでくださってありがとうございます。

これはテスト?

こんにちは。

このあたりは雪がちらちらと舞う程度でした。

今日は冷たい空気ながらも、太陽が出ています。


このところ、

あーーー、私、テストされているのかなあ?と思うことが立て続けに起こっています。


最近、犬の散歩をしながら、

ゴミ拾いをするようになったのですが、

その集めたゴミを、玄関の外にある

犬の排泄物のゴミ箱のところに置いています。


昨日の朝、玄関を開けると…


頭のいいカラスが、見事にばら撒いてくれていました。


一瞬、あーーーーもう!と

なりましたが、

ハッと、

もうゴミ拾いなんてしないわ!という私になるか、

これにも懲りずに、ゴミ拾いを続ける私でいるか、

むふふ、テストだわ!と直感で思いました。


もちろん私は、懲りずに出来る範囲で

ゴミ拾いを続けるつもりです。


その他にも。

「何かに対して、出来る範囲内で無理なくやればいいんじゃない?」の思考を取るか、

「無理してでも、ごりごりに頑張らなくちゃダメだよ!」

の思考を取るか?

のテストみたいなのも来ました。


これは、一瞬ひっかかって、

あわあわしてしまいましたが、

冷静になってから、

あーこれもテストだわ…と閃いたので

落ち着いて、

無理しないで、出来る範囲内でやりますので!

という答えを出しました。



いやいやでも。

毎日のように、抜き打ち小テストみたいなのが来ます。


5歳の娘が床が見えないくらいに、部屋をおもちゃやら本やらで散らかしているのを正に目撃した瞬間に、

(そんな部屋、はっきり言って見たくありません)

犬がじゃーっと床におしっこをし始め、

(OH NO!となっている、正にその瞬間に)

1歳半の娘が椅子から落ちて、大泣きを始め…


「さあ!君はこのシーンで、ブチ切れずに、冷静に対処できますか?

それとも、

ブチ切れて、うおーーーっとなりますか?」

みたいなやつです。


頭がくらっとなりますが、

あーテストだわ…テストだわ…と念仏のように唱えて、

冷静さをかき集めて、大声を出さずに対応するようにしています。


いつか脱毛症になるかしら?


これは私の器を広げるテストなんでしょうね。


あとは、異性に関しても、

これはテストだなあ、と感じるものがあります。


とっても良さそうな人を私の人生に登場させて、

「さあ。どうです?この方は!

いい人でしょう?ゆらゆらしましたか?」

と、やるのです。


いえいえ。


ゆらゆらなんてしませんよ。

ゆらゆらなんて、しません。



むふふ。


世界はおもしろいことをするなあ!と思って遠くから眺めて、毎日テストに臨んでいます。


罠と落とし穴だらけの毎日です。


読んでくださってありがとうございます。


親切と下心の狭間

こんにちは。

今日は空が白くて、空気が冷たいですね。


観測史上最高の冷え込みが予想される、寒気団が流れ込んでいるとか。

大きな被害なく無事に春を迎えられますように。



さてさて。


親切と下心。


昨日の出来事です。


20年以上お世話になっている美容師さん(男性)に、髪を切っていただきました。


私は元々、ヘアーサロン、とか、美容院、とかが苦手です。

髪を切っている間の、ぎこちない「トーク」が、本当に苦手だからです。


髪を整える間に、お客さんの情報をできるだけ引き出す、というのも、お仕事なのでしょうが。

その時だけ、まるで仲良しになったみたいな雰囲気で会話をするのが、多分、本当に嫌です。


彼は直感で、「この人なら大丈夫そう」と閃いた人なので、それ以来、ずっと、私の髪を見ていただいています。


なかなか個性的な方だし、自分のスタイルもきちんと持っていらっしゃる方だし、

話をしていて、変な緊張感はないし(これは大事)

もちろん高い技術力もお持ちで、私はとても信頼しています。


髪を切ってくださっている間、お互いの他愛もない会話をしていました。


その中で、どういう流れだか、

私が今の結婚相手と別れそうな感じです!と

いう話になりました。

明るく笑って、です。


(いやいや、具体的に、離婚に向けての話し合い、とか、そういうのはまだないですが、

私の中で、もう、覚悟というか、決めています)


途中から、彼の空気が少し変わったのに気づきました。


彼は、ヘッドスパやらマッサージやら、何だか、いつもよりも丁寧に、そして

優しくしてくださいました。


そして、髪は切らなくてもいいから、まあ話だけでもしにおいでよ、というお言葉まで。


むふふ。


少し遠くから、その会話を眺めていました。


お店から出た後、私はお礼のメールを送りました。


その時も、

こんな僕でよかったら、いつでも話を聞くよ。

今度はお茶も飲もうよ。というお返事。



私の奥の方で、小さく黄色いランプが点滅していました。


うーむ。


うーむ。


なんだか…。




少し時間が経って、自分の中が、

スノードームの舞っている雪が全部落ちてきたみたいに

しーん、となってきました。


そうして、またこの出来事を眺めてみました。

冷静に。客観的に。



点滅する黄色いランプ。


あのもじゃもじゃした気持ち。

なんだろう。


わかった。わかった。


私は、彼の様子、彼の言葉に、

下心のようなものを感じ取っていたようです。


親切と、

下心。


この見極めが、とても難しいですが、

私は、自分の奥底の感覚に従います。


ふーむ。

どうやら、私は、隙を見せてしまったようです。


男の人って、うまいなあ…すごいなあ…と

目が遠くなりながら感じました。


こういう、女の人の「隙」を突いて、

よっこらしょ、と割り込み、

特別に優しくしたり、相談にのったり、

ごはんを食べたり、

願わくば、子孫を広く残そうとする

活動みたいなことをするのかー!

と、思いました。


きっと、もっともっと前の私だったら、

はーあ!なんて親切なんでしょう、と

彼の思惑通りに行動していたかもしれません。


自分に自信が全然なかったし、

(たぶん、それだけでも、うまい男の人には、大きく削れた女に見えるのでしょうね)


誰かが私に親切にしてくれる、ということに、とても感動していましたし、

(今でも、嬉しいなあ!ありがとうございます!という気持ちは忘れていませんが)


相手が私に抱いてくれる優しい気持ちを無下に扱ったらダメだよ、

と全面的に思っていました。


だから、きっと、

いいように使われていることに気づけなかったり、都合のいい女になっているのに、全然自覚がなかったり…

だったのでしょう。

あー悲しい。



疑う、ということを、勧めているのではありません。


むしろ、私は、できるだけ先入観なしで、人と接して行きたいと思っています。

ただ、その途中、経過で、

んんん?

と小さくても、奥底の黄色いランプが点滅しているのを感じた時は、


奥底がビーコン!ビーコン!と

何かの警告をしてくれている


と、今の私は感じています。


少しだけ、大人になりました…。


きっと。

本当に優しい紳士は、

そんなやり方はしないですね。


隙を突く、とか

自信のなさそうな女の削れた部分に入り込む、とか。


でも残念。

まだまだ世の中には、

紳士は少ないのです。



読んでくださってありがとうございます。



危険なもの

こんばんは。

今日は久しぶりに雨が降りました。 


ずっとずっと前は、雨が嫌いだったなあ…  

巨大ドームを作ってくれたら、雨にあたらなくて過ごせるのになあ!なんて

随分と勝手なことを考えて過ごしていました。


でも今は、雨もいいや!と思えます。

晴れる日があって、雨の日もあって、

もちろん曇りの日もあって、

全部必要なんだと、受け止めています。

木や花や草や、育つためには、雨が必要ですものね。



危険なもの。


私にとって、結構危険なものは、

音楽です。


特に要注意で、危険なのは、生のオーケストラ。


なんでしょう、あれは。


もう、完全に、私のコントロールを離れて、自動的に裸の心みたいにされて、

涙がぼろぼろと勝手に出てきてしまいます。


なんでしょう、あれは。


様々な音色を出す楽器が、

なんて言うのでしょう…

「調和」、していて、

そうしてひとつの音楽を創っていて。

たぶん、それが猛烈に私の心に響くのでしょう。

その時だけの、奇跡、みたいなのが。

それぞれの奏者の感覚と、気持ちと、技術と、すべてが合わさって、ひとつの音となります。

その奇跡みたいなものに、心が震えるのでしょうか。


初めてこれを体験したのは、

大学の卒業式の時でした。


ひんやりとした講堂で。


オーケストラの音楽が不意打ちに聴こえてきて。


(おー、やめてやめて。)


勝手に、心のブロックみたいなのがぼっかーーんと外れてしまって、

ひとりで周りから浮くくらい泣いていました。


(決して、卒業、というものに胸が熱くなったわけではないです。

あれは、完全に、音に、でした。)


今でも、何だか自動的に、

ブロックみたいなのが外れて、奥底に響いてしまう音楽?楽曲?があります。


そうすると、

やっぱり、どうしても、涙が出てきます。

そして、

普段は見え切れていない、掴み切れていない、奥深くからの自分の気持ちが表面に浮いてきます。


あー。私、見えていなかったけれど、

こういう悲しい気持ちを奥底に封じ込めていたのね、と

ある意味、感情の浄化みたいで

それはそれで、いいと思っています。


特定の音、音楽、楽曲は、

私にとって、ある種のスイッチのようです。


深いところへ繋がるスイッチ。



恐らく、必要な時に、そういう音を聴きたい、と思わせられているようです。


浄化してくださーい、とか、

昇華してくださーい、というような時に。


 もしくは。映画。

よくわからないけれど、これを見よう!と思わせて。

(よくわからないけれど、無性にこれを見たい、というか、見なさい、とコントロールされているような感覚と共に)


おいおいと私は泣いて、

あー、私を泣かせたかったんだなあ、と

遠く感じたりします。


とにかく。

深くに閉じ込めてしまった(無自覚に)感情を

昇華させるのに、

音楽やら映画はとっても有効です!


(私だけ?)


不思議だけれど、

泣くと、その後、さっぱりした気持ちになります。


きっと、感情の浄化です。


読んでくださってありがとうございます。




水瓶座新月がくれたプレゼント

こんばんは。

昨日はとっても暖かな立春となりましたね。

少し早めにいただけた贈り物みたい。


寒さに弱い私は、もう、嬉しくて、

春みたいに空気がほどけて、甘い香りがしていて、よし、何でもできる気がする!と

びゅんと強い気持ちになった1日となりました。


今朝のお散歩の時。

昨日の暖かさで、気の早い梅の花は、少し咲いていました。


もう、すぐそこに春が来ています。

とっても嬉しいです。

あともう少し、がんばりましょう。



今日は水瓶座新月です。

前までは、そんなに月の満ち欠けを気にしていませんでしたが、

これもまた偶然を装った必然で、

ちゃんと情報が入って来て、

私は気にするようになりました。



今朝、起きて一番に突如ふわっと閃いたこと。


「自分を強く信じるとは?の答えのようなもの」



何ヶ月も前から、

恐れを抱かないで。不安やらのネガティブな気持ちは捨てて下さい。 


自分をより強く信じましょう。


などのサインが、ばしばし来ていたのです。


結構、いや、かなり、

物事をポジティブに捉える方だと思っていますが、

このようなサインは繰り返し私に届いています。

と言うことは、私は

自分をより強く信じる、ということができていない、ということです。

 

そもそも。

(自分をより強く信じる、って、どういうことだろう…)


奥底では、本当は腑に落ちていなかったようです。


でも、今朝、ばばばばっと、その意味が

「わかった」と感じました。




結構前から、モーゼの十戒のような映像が目に浮かんでいました。

杖を振ると、ばーっと海が割れる、あれです。


閃いたこと。わかったこと。腑に落ちたこと。頭ではなく、心で理解したこと。


つまり。


私の奥底から湧き上がってくる望み、願望、意思をそのままに、


(そこには、

うまく行かないんじゃないか、とか

そんなの絵空事だよ、とか

不安や恐れ、固定概念や、常識なんて一切挟まずに)


大丈夫、大丈夫、うまく行くから大丈夫だよーと

普通に「信じ切っていたら、」


本当にモーゼの十戒みたいに、

ばーーーーっと海が割れるみたいに、

周りの状況やら、何かや誰かの都合やらが、

割れて(退いて)、すべてがうまく整って、

進む「道」が、ちゃんと出来る、ということ。



自分の感覚を信じること=自信、だと

私は思っています。


この感覚の正確さ、間違えのなさ、を

本気で本気で、余計な恐れなど一切持たずに、信じ切ってください、という

意味なんだ、と感じました。




道は、見えていないから、

そこには道がない、と思ってしまいます。


道なんて、(目の前にはないように見えるから)できっこないよ、と

できないことの方に力を与えて

「普通は」考えてしまいます。


でも、違うようです。


いやいやいやいやいや。

道、できるから!


と、信じ切って、進んで行ったら、

ゴツンとぶつかりそうなところで、

(ゴツンとぶつかるだろうと思っていたら、それは恐怖心の勝ちです)

実は

ふわーーーっと道ができあがるのです。


おーーーー!

道できたー!ほらね、やっぱりね!

と、信じる力の勝ちです。



本当は、きっと、

みんな、そういうふうにできているんだと思います。

でも、恐れや不安や、固定概念や、常識や、

自分の本来のものの外側の方に

力を与えて考えてしまいます。


でもそこを

びりっと剥がす洞察力と、

「ありのままの自分の望み」と

外側から知らないうちにくっつけられた価値観とを、見極めて

しっかりと、分けること。


少しずつ、少しずつでも、

丁寧にやって行けば、どんどんと

分けられて来ます。


私もそれの過程です。



世界はみんなのことを

同じように愛しています。

本当に同じように。


私が変わるために、水瓶座新月が贈ってくれた閃きのプレゼントだったなあ!と感じます。


必要な方にも、届きますように。


読んでくださってありがとうございます。