日々のこと 感じたこと

HSP/子育て中の私の備忘録です

自分の心の観察

こんにちは。

また今日は蒸し暑い1日となりました。

気づけばもう8月も終わり・・・・。

毎年、9月10月11月12月は、

とんでもなくスピードアップして日々が過ぎて行きます。

それがあと少しで始まるなんて。

今年はもう少し、のんびりやって行きたいなぁと思います。

 

自分の心の観察。

 

この数日、自分の心がいつもと違うので、

じっくり観察してみました。

 

①なんだかとにかく疲れている

精神的、なのか、肉体的なのか、よくわかりませんが、

からだの力が軽く抜けているような。

さあ今日もやるぜー!みたいな気力がなくて、やる気もあんまり感じられません。

元気な時と、元気でない時。私たちは大きなリズムに乗って生きているので

仕方がないと言えば、仕方がないのですが。

 

そんな状態を数日過ごしていると。

からだの奥から、ざわざわざわっとした感じがやって来ます。

 

「いいの?いいの?こんなでいいの?」

「動かなくていいの?何か、しなくていいの?」

「有意義に過ごさなくていいの?何かの役に立たないと!」

「元気ないのはダメだねー」

 

こういう小さな信号がたくさんやって来ます。

そうして、それに名前を付けるとしたら

焦り、です。

 

焦り。焦り。

ドキドキしてきます。

 

自分で、自分を癒してきたつもりでしたが、まだ残党がいるようです。

そう、こうやって、少し調子が落ちてきたり、悪くなっている時に

残党は暴れ出します。

だから、チャンス!として、やっつけてやりましょう。

 

『何かをしなくていけないと思い込んでいる』/『無価値観』

残党の正体はきっとこれです。

何かしないと、ここにいたらダメだよ。有意義な時間を過ごして。

誰かの、何かの役に立っている?

こういうことを、ごちゃごちゃと、私の心に言ってきます。

 

何かをしないとここにいたらダメだよ、と思うこと。

これは、かなり根深く、そして根強いです。

 

でも。

本当は何もしないでも、ここにいて、いいのです。

ただ、そこにいるだけで、もういいのです。

誰でも、みんな。そこに、ここにいてくれるだけで、もうそれでいいのです。

 

何かしてもいいし、何もしなくてもいい。

どちらでもいいんだよーの地点です。


何かできるようにならないと(できていないと)、

ここにいたらいけないんだ、と思わせているのは

取り外すべきエゴだと、私は思っています。

 

もちろん。

自分が何かをして、それが誰か、だったり、何かの役に立っている、と

自覚できることはとても幸せです。

限りある時間、できるだけ、有意義に過ごせたら、幸せだし

充足感だって得られます。

 

人はきっと、何かの役に立ちたい!と

本能的に感じているものだと思っています。

無価値観から半強制的に突き動かされて行動する、のではなくて、

根源的、というか、もっともっと深い魂の部分で、

人は何かの、誰かの役に立ちたい、という愛を持っているのだと思います。

 

でも、いつだって、同じ、いい状態の心でいることはできません。

時には疲れたり、嫌な感情に襲われたり、人の心はぐにゃぐにゃです。

調子が昇りっぱなし、というものではないと、思います。

 

確かに、とてもつらいです。

やる気が出ない、元気があんまりない、静かでいたい。

どうしちゃったの?と思う私もいます。

でも、弱っている時も、ちゃんと、そのままを受け止めてあげようと、と思います。

 

ごちゃごちゃ言う声に従ってしまうと、

希望、願望をモチベーションにした動き(愛)、ではなくて、

焦りをモチベーションにした動き(エゴ)になってしまいます。

それは、×、というのは、よくわかっています。

 

だから、こんな時は、外は猛吹雪で動けない時の動物みたいに、

じっと、じっと、巣穴で雪が止むのを待つしかないのです。

心とからだが回復するまで。

 

②まだ傷ついているのに気付いたこと

昨日の夜、5歳の娘とお風呂に入っていました。

夜も更けていて、私の1日の疲れのピーク、自制心も落ちてきている頃でした。

私は、さかさかっとお風呂を済ませて、

早く娘をお布団へ運びたい、と思っていました。

 

しかし、5歳の長女は、石鹸のふわふわの泡を足の裏に付けて

スケートごっこを始めていました。

(あーーうーー。もう止めて!早く寝ようよー)と思っていましたが、

彼女の遊びたい気持ちも採用したいので、

少し、そのまま遊ばせていました。

でも、静かに、そろそろ、もうスケートは止めて、寝るお仕度しようね、と

伝えました。

でも遊んでいる彼女には、特殊な耳栓が付いているので(いつも・・・・)

もちろん遊び続けていました。

 

それを繰り返すこと何回か。

石鹸の泡を足して、スケートごっこはまだ続いていました。

 

ある瞬間。

私の中で、ぷちんとなって、お盆がひっくり返りました。

 

その時の自分の心は。

「どうして私の話を聞いてくれないの?」という悲しみでした。

でも同時に、その私の様子を冷静に見ている私もいて。

その時にはっとわかったのは、

小さい頃の私がまだ傷ついている、でした。

 

「私の話を聞いて」

 

瞬間的によくわかったことです。

小さい頃、私の話したいことをちゃんと聞いてもらえなかった、

それが、すごくすごく悲しかった。

一生懸命、伝えようとしているのに。話したいと思うことがあったのに。

でも、お母さんは聞いてくれない(忙しくて?余裕がなくて?)。

適当に、あしらわれた。向き合って欲しかった。

 

その、話をきいてくれない、という態度を

私は、自分のことを大切に思ってもらえていない、と感じている(感じていた)

ようです。

そこが、まだまだ癒されていなくて、癒しきれていなくて、傷ついている。

そんなことが、しゃっとわかりました。

 

だからこそ。

娘が話を聞いてくれなさ過ぎたり、主人が私の話を上の空で聞いていたりすると、

「ま、仕方ないかー!」よりも、

奥底から、大切に扱ってもらえていない、級の深い悲しみに

襲われていた。

そんなことが、わかりました。

 

傷口に、さらなる塩水をかけてくれる役目、だったのです。

でも、気づきました。

世界の目的は、私にその傷を認識させることです。

塩水かけ係は、娘だったり、主人だったり、なわけで。

 

自分が、思っているよりも、もっともっと、

私は傷ついているんだ。

そんなことを再認識しました。

 

気づいたら癒す。表面化してきたら、癒す。

自分の心に正直に。痛みと、悲しみと、チクッと感が

私に、この部分が傷ついていますよーと、教えてくれるのです。

 

なんだかこうして、ゆっくりと、

丁寧に、自分のありのままの心探し、なわけです。

気づいてあげることと、許してあげること、認めてあげること、

広げてあげること。

奥が深いなあと思います。

 

読んで下さってありがとうございます。

誰かの役に立ちますように。

キャンプ後ーHSP的疲れ具合

こんにちは。

なんだか曇天です。洗濯物がぴりっと乾かず、もんわりと

時間をかけて蒸し上げる・・・・・みたいになっています。

雷が鳴ったり、夜も涼しくなってきたり、

少しずつ、季節が進んでいますね。

 

今年の夏も、たくさんぶどうを食べました。

主人がお土産に買ってきてくれたり、親族が送ってくれたり。

私は巨峰とピオーネが大好きです。

巨峰は、鼻血が出るくらい濃厚な甘さ。実は少しだけ柔らかいです。

ピオーネは、巨峰よりも、ぶりっと張った感じがして、少し硬くて大きくて、

そして、巨峰よりも甘味が若干薄い感じがします。

今年は、私の人生において初登場の

ブラックビートというぶどうを食べました。

ブラックビート。これはすごいです。

巨峰の濃厚な甘さに、ピオーネの粒の大きさと硬さが加わったぶどうでした。

ぱちっと皮が張った実はどれも立派で、大きくて。

1粒食べるたびに、目をつぶって、うーーーむ!と

うなってしまうほど。鼻血が出そうになりました。

 

さて。さて。

この前の週末、キャンプへ行ってきました。

翌日の月曜日から、普段通り、

主人は仕事へ、2人の子供たちも元気に保育園へ行っています。

 

私はと言うと。

得体の知れない疲れがからだに残っています。

なんだか、普段、ふんふんふんーとやれていることも、

からだが重くて、体中のやる気を集めてこないとできない感じです。

洗濯も、ごはんの支度も。

 

(少しだけ、うわ、私、なんでこんなに体力ないのー?と焦った私も出てきました)

 

体力がない。疲れやすい。

これは、HSPを自覚している方は、うん、うん、と同意していただけること

かもしれません。

 

キャンプで、私が、がしがしテントを張ったり、せっせと水を汲みに行ったり、

みんなのごはんを率先して作った、とかそういうのでは全くありません。

むしろ、主人や他のお父さんたちがたくさん頑張ってくれていました。

(ありがとうございます!)

 

私は、目が離せない1歳の次女のお世話と、主人の軽いサポート役、みたいなことを

していました。

体、で言ったら、全然動いていません。

でも、自動的に神経がいろいろな情報を拾っていました。

目から見えること、耳から聞こえること、鼻からは匂い、臭い、

空の色、木の緑、他のお母さんたちの動きや、口調、他のお父さんたちの

様子、他の子供たちの遊ぶ様子、ケンカする経過・・・・など。

2日間、他の家族たちと共に行動して、

家に帰ってきたら、Aちゃんの家のパパはこんな感じで、ママはこういう人だったね、

Bちゃんの家は・・・・・・と、

ほぼ全員の観察結果(意図しない観察です。勝手に拾って勝手に分析してしまいます)、

特徴がわかっていたくらいでした。

 

人のこと、だけではありません。

今、こういう動きをしておいた方がいい、とか、カレーがそろそろ焦げ付きそう、とか、Cちゃんの顔がちょっと浮かないから、なだめてみよう、とか

向こうから車が来ているぞ、とか、お隣は何人くらいのチームだな、とか

とにかく、多方に神経というか、アンテナが張られてしまっていて、

ざらーっ・ざらーっと常に情報解析がなされているみたいでした。

(しかも、気にしないでおく、ということはできないのです。

勝手に、流れ込んでくるのです。)

 

静かに、椅子に座っているだけでも、目の前に繰り広げられる風景、人の動きに対して

かちゃかちゃかちゃかちゃと、体の中のセンサーが動き続けている、みたいな、

そんな状態でした。

 

体をどれだけ動かしたか、という目に見えることだけではなくて、

HSPの場合は、体の中で常に働いている、このセンサーも、

プラスの疲れとして出てくるのだと再認識しました。

 

家に帰ってきてからも、濡れたタオルがあるから、カビが生えちゃったらいやだ、

洗濯しちゃえーーー、とか、

朝露でテントもしっとりしているから、これも、ええい、干してしまえーー、とか、

なんだかんだと、頭の中にやっておきたいリストがばーーーっとできてしまいました。

 

+普段、常には行動を共にしていない集団の中。

子供たちのおかしなデシベルでの話し声(喚き声)。

自分の娘たちにはあまりない瑣末な子供っぽい争い…。

 

 

いやいや。

楽しかったです。本当に。でも、ぐったりなんです。

ゆっくり回復しましょう。

 

読んで下さってありがとうございます。

 

 

キャンプーーー!

こんばんは。

なんだかとっても蒸し暑い8月下旬ですね。

酷残暑。初めて聞く言葉ですが。

流れに乗って、でも、今年の夏はとってもとっても暑いので、

それの流れに乗って行きましょう。

 

この前の土曜日と日曜日、キャンプへ行ってきました。

大人になってから初めてのキャンプ。

いろいろな人の力が合わさって、そうして出来上がったキャンプ。

自分のできないところは、うまく誰かが補ってくれて、

みんなの得意なところをかき集めたら、

ちゃんと、うまく、すべてうまく行くようにできている。

そういうのを体感できました。

 

外は真っ暗で、木は高くて、人は小さくて。

緑の方が圧倒的に強くて、木の匂い。土の匂い。

虫の声と川の音。

 

こういうの、定期的に欲しいなぁと思いました。

 

車、とか、電車とか、テレビ、とか、電気、とか、

そういうのから離れて、大きな自然の中にぽつんと。

 

日常からすっかり離れて、頭はがらんとして、

とっても心地よいものとなりました。

人は本当はとっても小さくて、自然の方が本当はとっても強くて、

普段はそこに生かされているのに、

でも、自然をまるで支配しているようにしていること。

勝手に木を切ったり、汚したり。

おかまいなしにしているけれど、でも、それは、違う、間違っている、と

感じます。

 

もっと、もっと、上手に、共生できる方法を見つけられたら、と

思います。

 

自分の子供たちには、

虫を怖がったり、電気がない不便さや、トイレが遠い不便さを嘆くよりも、

こういうの、いいよね!って

思える子供に育ってくれたら、本当に嬉しいなぁって思いました。

 

いつもはプリキュアーとか騒いでいますが。

 

いざとなったら、自然の中でも、逞しく生き延びられるように。

何かあっても、ぎゃあぎゃあ騒がずに、さっと、

やるべきことを判断できる強さと、逞しさ。

 

真っ暗で、本能がむくむくと動き出して喜ぶ感じがしました。

 

また、行きたいです。

今日はさらっとしたブログになりました。

 

読んで下さってありがとうございます。

 

 

 

 

母のこと

こんにちは。

朝、子供たちを保育園へ送った時は、すごい風と多少の雨でしたが、

みるみる天気が回復してきました。

大きな被害なく、この台風が海へ抜けてくれたらいいですが。

 

今日は母のお話です。

私にとって、母はとても難しい人です。

これまで会って来た人の中で、多分、1位で、難しい人です。

友人とか、知り合い、とかだったら、

会わないようにする、とか、連絡を絶つという方法も取れますが、

母です。身内なので、絶縁もなかなか難しいし、

ちょっと、悲しい気持ちもします。

 

以前の私は、母とものすごく衝突していました。

 

普段、私は穏やかです。

 

でも、母の前にいると・・・・・どうしてでしょう。

甘えでしょうか、それとも、彼女の中に、私自身が許せていない自分を

投影していたからでしょうか。

とにかく、自動的に神経が尖ってしまって、自動的に緊張状態になってしまって、

「うわ、嫌だ」「・・・・ふぅ(落胆と我慢)」「うわ、またこれやっているわ」と

いちいち彼女の嫌なポイントを拾ってしまって、

とっても疲れていました。

 

不思議な感覚でした。

アンテナがびびびびびっと自動的に張ってしまって、

「嫌だ」と感じる言葉、行動、雰囲気など、全部拾ってきていました。

(でも、じっと我慢しています。気にしないように気にしないように。

でも、嫌だ、と感じる心は、感じるのをやめてくれません。)

 

小さい頃から押さえつけて来た感情。

HSPにはきつすぎる言葉の数々。

どうして・・・・・?と純粋に悲しくなる行動。

母が私に投げて来たいろんなものが、私の中に浮遊していました。

 

そして、ある一点を超えると・・・・・

おりゃーっと私は激変して、

母の前で、怒りの人に変身していました。

そうして、彼女を言葉で傷つけ、態度で傷つけ、自分も、激しい感情で

へとへとになっていました。

 

でも、今は。

どう感じているのでしょう。母のことを。

 

前までの私は

過敏だったなぁ、と客観的に見えます。

 

私は、母と、近づき過ぎると、疲れて良くない自分が出てきてしまう、ということは

学びました。

近づき過ぎると、そんなことしたくないのに、きつい言葉で

彼女を拒否してしまったり。とっても自分を傷つける行為です。

だから、遠くに、遠くに、います。

物理的距離感、というよりも、精神的距離感、というか。

母に対して、優しい自分でいられる距離感です。

恐らく、丸1日いたら、疲れてしまいます。

なので、多分、5、6時間、一緒に過ごすのが、適当だと、感じています。

実家だけど、泊まるのは、ちょっと厳しいです。

 

嫌いだ、と感じたり、(自分が言われたら)ひどく傷つく言葉を

誰かに投げつけたり、それはそれで、自分に対してもひどいダメージを与えます。

それは、自分で自分をいじめたり、苦しめる行為です。

 

母のことは、変えられません。

なので。

自分の対応を変えました。

自分の認識を変えました。

自分の限界を見積もりました。

 

自分も傷つかない地点。同時に、母のことも傷つけない地点。

 

前までは、母の嫌なところばかり、目についていました。

本当に嫌だ、と。本当に、嫌いだ、と。

身内じゃなかったら、あまり関わりたくない人だ、と。

 

でも、今は、少し、見方が変わってきました。

嫌いだ、憎いという気持ちは薄れて。

嫌いだ、憎い、という気持ちを持ち続けるのも、とてもエネルギーが要ります。

 

距離感のおかげ様、なのか。

彼女から教わったよかったことは何だろう?が少しずつ見えるようになりました。

小さい頃から、厳しくて、自分のことは自分でやりなさい、と

半ば放り投げ状態で育ってきました。

甘えたかった、気持ちを分かって欲しかった、という私のインナーチャイルド

恐らく、自分で癒せたかと思います。

 

主人とは生活の時間帯が合わないので、

今現在、ほとんど一人で家事育児をしています。

でも、これはきっと、小さい頃から母に

自分のことは自分でやりなさい、と鍛えらえて来たからこそ、

できるんだわ、とある時気づきました。

 

母はある意味、とても、厳しい魂の持ち主です。

人を頼ってはダメ、甘えないで、自分の足でしっかりと立ちなさい、と。

 

この言葉の意味、この言葉の感覚がわかるようになるまで、時間がかかりました。

それができるようになるまで、も、時間がかかりました。

(まだ自分でやれることはあると、目下感じていますが)

 

きっと、人に助けてもらってもいいよ、でも、常に常に、誰かの助けがあると

想定して(見込んで)、考えや行動を作って行くのはダメですよ、という意味です。

常に、誰かに助けてもらわなくてはいけない状態はダメですよ、ということです。

時々、助けてもらうことはあっても、あくまでもオプションで、

基本は、自分の足で立ちましょうね、と

いうことです。

 

とても高潔で厳しい教えです。

でも、きっと、そうなんだと今現在の私は感じます。

精神的に自立すること。

自分の足で立つこと。

自分の人生に責任を持つこと。

自分の蒔いた種は自分で最後まで刈り取る、ということ。

自分の力で、やれる範囲内で、すべてを展開させること。

 

とてもきつかったです。いや、今でもきついです。

でも、この考えをからだの奥に染み込ませたら。

 

人をあてにすることはなくなります。

人に期待することもなくなります。

何か起こった時に、自分の外側に原因を求めるのもなくなります。

怒ったり、イライラしたりすることはなくなって、

常に自分の改善点はどこかな?を探せるようになる、ということです。

どんどこ・どんどこ、最新版に自分をアップデートさせることができる、ということです。

 

そして。

母を見ていて、嫌だなぁ、そりゃないぜーと思う点。

それは反面教師として逆に利用させてもらうことにしました。

母にされて嫌だったことは、気を付けて、自分の子供にはしないようにします。

母を見ていて、そういうのって、どうなの?と感じるところは

そうしないように、戒めとして利用します。

 

母から得た、いいところも、悪いところも、

両方、利用させてもらいます。

そうして、ありがとうございます、と感じられるようになりました。

 

学びと気づきの日々です。

大変です。なかなかきついです。

時々頭がもげそうになります。

 

でも、きっと、私はこういうふうにしか、生きられないんだと思います。

今日はなんだかゴリゴリのまじめなお話になりました。

 

読んで下さってありがとうございます。

感性を応援する

こんにちは。

前回、前々回のブログでは

秋っぽくなりましたね、なんて書きましたが。

いやいや。まだまだ。

今日はもわーーんと蒸し暑い1日になりました。

でも。こういう暑い日は、冷たいビールが美味しすぎるし、好きです。

少し涼しくなって、半袖で寝るのはちょっと心許ないね、という夜も好きです。

 

さて。さて。

 

私には5歳の娘と1歳の娘がいます。

5歳の娘は、観察する限り、いわゆるHSCというやつです。

(私もHSCだったと思います)

 

だから、よくわかります。彼女のことが。

 

お布団が敷いてあると、自動的に嬉しくなって、げらげら笑いながら

大興奮するのや、

何か気に入ったものがあると、眠る時もそばに置いておきたいところや、

これが気に入っちゃった!となったら、もうどうしても欲しくなってしまうところやら。

 

あーうんうん、わかるよ、私も小さい時、同じだったわーって心の中で

うなずきます。

 

ぐにゃぐにゃのお肉(脂身)が嫌いなことや、きのこも食べられないこと、

生の魚も食べられないこと、朝は、ほとんど飲み物だけしか口にしないこと、

見ないでー!と言って、ひとりの世界に入り込んで遊ぶことがあること、

味や食べ物の匂いに敏感なこと、濡れた洋服は脱ぎたがること、

大勢の人の中にいた後は、ダウンタイムが必要なこと、

保育園に毎日通っていると、疲れと他のお友達の刺激が溜まってきてしまって

時々お休みしないとエネルギーが落ちてしまうこと・・・・・。

 

私が私自身の感性、感覚を丸ごと引き受けて、肯定できるようになったからこそ、

私とは別人格の娘の感覚も、大切に応援して、そのままを見守ってあげたいなぁと

感じるようになりました。

 

私はHSCやらHSPを理解しない親の元に生まれた分、

「遠回り」をした感がありますし。

 

 

この前のできごと。

5歳の娘と1歳の娘が、一緒に遊んでいました。

1歳の娘は、髪の毛を引っ張ったり、顔を手でパシンと叩いたりします。

(私の推測では、1歳の娘は、試しているんだなぁと思います。)

 

(1歳の娘は、前は私を相手にいろいろと試してきました。

髪の毛を引っ張ってみたり、爪でひっかいてみたり、顔をパシンとしたり、

二の腕を5ミリくらいつまんでみたり、おっぱいを飲んでいた頃は

乳首をぎーっとしてみたり)

 

そうやって、きっと、これをしたら、周りの人はどういう反応をするんだろう、

どういう顔をするんだろう、どういう声を出すんだろう、快?不快?

やっても大丈夫なこと?やったらダメそうなこと?と学んでいるんだなぁと

感じます。

 

5歳の娘は、1歳の妹に髪の毛を引っ張られていました。

そして5歳の娘は、私の方を見ながら

「〇〇ちゃん(妹の名前)、痛いよー」と言いました。

 

私の方を見ながら・・・・・

 

これはつまり・・・。

私(ママ)の感覚でジャッジして、ってこと?

 

それは違うと思いました。

だから、静かに伝えました。

「ママの方を見て言うんじゃなくて、〇〇(妹)に痛いよ、って教えてあげて。

〇〇(5歳の娘)が痛いよ、って感じるなら、それが正解なんだよ。

〇〇(5歳の娘)が嫌だ、とか、痛い、とか、止めて、とか思うなら、

それをママに(これであっている?と)確認するんじゃなくて、〇〇(5歳の娘)の感覚で〇〇(妹)に伝えたらいいんだよ」と。

 

いろんな感覚があります。

嫌だと思う人、嫌だと思わない人。

でも、嫌だと思っているのに、嫌だと思っちゃいけないんだ、と思わせたくないです。

だから、迷っているのに気づいたら、せっせと

娘の感覚を応援しています。

 

読んで下さってありがとうございます。

 

予告なしの発砲

こんばんは。

晴れて、風が強くて、空気が軽い1日でした。

少しずつ、秋に近づいている感じがします。

この感じ。

私は秋の運動会の日の朝、みたいな気持ちになります。

暑過ぎず、重過ぎず。空が高くて。

 

本当は、いつだって、世界はいつだって、こうして

いろいろな変化を見せてくれているのに、

忙しく生きているのを選択していたら。

全然気づきませんよね。1年を通して、咲く花に変化があったり、

木の葉っぱの色や量、空気の重さや、空の色や。

私はもう、ゆっくり生きることを選択します。これから先も。

 

予告なしの発砲。

おー怖い怖い。

撃ちますよーと言われずに、いきなりズキューーンと。

え、待って待って、避けられたかもしれないのに。隠れられたかもしれないのに。

 

予告なしの発砲とは。

私はよく、これを子供の頃に母親にされました。説明もなしに、いきなり、突然、怒られる。しかも感情的に!

「叱る」ではなくて、「怒る」です。

 

私は、幸か不幸か、子供の頃からの記憶がとっても残っています。

そして、親にされた、「なんだよこれ!」とか「うわ、酷い!」というもの

たくさん残っています。

 

そして、母親に予告なしの発砲をされた時の、小さな自分は、

「え、そんなのいきなり言われても知らないよ・・・・」

とびっくりしたり、怒っている母親の様子に恐怖心を覚えたのを

覚えています。

 

私が思うに。

叱る、というのは、落ち着いた心持ちで、相手を諭すという狙いがあるけれど

怒る、というのは、当人の感情の赴くままに、当人のものさしを相手に突如ふりかざす、ということだと思っています。

 

怒る、というものの怖い点は、

言っている内容云々よりも、「うわ!怒っている!」というびっくり感と恐怖が

先にやって来る点です。

言っている内容が、たとえ冷静に落ち着いて考えて、うんうん、正しいよね、と

思えることであっても。

心は、「びっくり」やら「恐怖」をまず先に、拾ってしまいます。

びっくりしたり、恐怖心を感じ取った心には、もう、その時に相手が言っている

「正しいであろう」話の内容なんて、入って来ません。

 

だから。

正しく、相手に伝える方法を考えなくてはいけないのです。

相手に、どうやったら、「びっくり」や「恐怖心」ではなくて、

「話の内容」を伝えらえるか、聞いてもらえるか、ということです。

 

①湧き上がった感情に身を任せて、うわーーーーーっと言う

これは、×です。相手には、残念ながら、恐怖心とびっくりしか与えられません。

 

②当人がわかっていることが世界のみんなが知っていることだと思って

話を進めること

これも×です。たいていの人はテレパシーは使えません。わかっていない、を

前提に話を進めるのが得策かと思われます。

 

 

私も。

自分の子供たちに何かを注意する時、

丁寧に落ち着いて話すことを心がけています。

予告なしに発砲されて、小さな頃の私は、すごく、びっくりしましたし、

恐怖心、を覚えましたから。

それは、しちゃいけないよなぁ、って思います。

 

話し方って、すごく、大切だよな、って思います。

「ちょっと!これやってよ(怒りながら)!」と

「えっと、これをやってもらえると、今、すごく助かるー!」と言うのと。

 

同じ「これをやって欲しい」という要望を伝えるのにも、

前者だと、そんなに怒って言わなくても・・・・・となってしまうけれど

後者だと、OK、と相手も気持ちよく手助けしよう、と思ってくれます。

 

私の反面教師・母、のお話でした。

読んでくださってありがとうございます。

無駄に傷つかない

こんにちは。

今日もよく晴れています。

風が強くて、空気が軽くなってきていて、

暑い暑い夏から、少しだけ、季節が進んできているなぁと感じます。

 

昨日の夜も、風がびゅうびゅう吹いていて。

寝ころびながら、カーテンがふわーんふわーんと揺れているのを

子供と眺めました。

静かで幸せな時間でした。

 

 

「無駄に傷つかない」

先程、お皿を洗っていて、ふと、浮かんだので、

それについて書いていこうと思います。

 

恥ずかしながら、私は、「自分」と「自分が好きになった人」の感覚は

違うんだ、とはっきり、ぱっきりとわかったのは、

結構大人になってからです。

どうしてか、なぜか、私の見ているままに、隣にいる彼も見ている、と

信じていたし、

私の感じるままに、隣にいる彼も感じているはずだ、と

強く信じていました。

だから、もっと若い頃は、自分の感じるものを、見えているものを、

一番近しい人(彼、だったり、今なら主人)と分かち合いたい、という気持ちが

強かったです。

わかって欲しい、わかって欲しい、と強く、思っていました。

 

多分。

小さい頃から、今思うと、HSP感丸出しの感性だったので、

父や母、姉(当時の一番近しい人たち)とは、何かが違う、と感じていました。

だから、自分が好きになる人には、それまでわかってもらえなかった分、

強烈に「私をわかってーーーー!」という気持ちをぶつけてしまっていました。

 

今なら、これって

甘えだよなぁ、ってよく、わかります。

 

 

「私」と全く同じ感性の人は、きっといないと思います。

私の完全コピーは、世界中どこを探してもいません。

それは、個々の人間、みんなに言えることだと思います。

みんながみんな、それぞれで、全員、違っている、のです。

 

「私」の感覚、感性を、そのままにわかってくれるはずだ、と

信じていたからこそ、無駄に傷ついていたんだ、と今ならわかります。

 

ひゅーーっと世界を遠くに見て。引いて、引いて見て。

あ、そうか、例え自分が好きになった人であっても、

自分の完全コピーではないし、

「私の感じるもの、見えるもの」と「彼の感じるもの、見えるもの」は

全然、違うんだ、と、遅ればせながら、ある時気づきました。

 

美術館へ一緒に行って、隣に立って、同じ絵を見ていても。

同じ絵を見ていても、人それぞれ、見ている部分は違うし、

感じるものも違うし、印象に残るものも、違うんだ、ということです。

私は木を。彼は空の雲を。いいね、と思う作品も。

 

これに気づくまでに、これまた大変な時間を要しました。

 

「自分は自分」「(一般的な)人は人」とよくわかっていましたが、

「自分は自分」「自分の好きな人は自分の好きな人(ありのままのその人)」という

のが、うまくわかれなくて、境界線がぐちゃぐちゃで、

どうして、わかってくれないの?どうして、そんな傷つくことするの?と

なっていました。

 

でも、違いますね。

例え、自分が好きになった人であっても、どこかが自分と溶け合っている、なんて

ことはないんです。

私は、感性・感覚が溶け合っているはずだ、と勝手に、信じていただけでした。

 

「誰かにわかって欲しい」「この感じ、この気持ちをそっくりそのまま知って欲しい」

と思っていたら、無駄に傷つくだけです。

いいんです。外に求めなくても。

きっと、「自分」がちゃんと「自分」の気持ちをわかって、知ってあげれば、

いいんです。

 

境界線を引く。

これって、知らなかったけど、大切だなぁって思います。

私は、これは嫌だと感じるけど、貴方は、これは嫌だと感じないんだね。ふむふむ。

これで、終わりです。お互いの感覚を尊重します。

 

貴方はどうして、これを(私と同じように)嫌だと感じないの?と

やり始めたら、

自分の感性、感覚が世界の絶対であると信じていて、そう感じないのはおかしい!と

価値観を強要しているだけ、なんですよね。

 

それに。

逆のことだってもちろんあり得ます。

私の感覚が彼を傷つける。

傷つくのは自分だけ、ではないのです。

自分が、傷つけてしまうことだって、あるのです。

 

感性、感覚、みんなそれぞれなんです。

みんな、違っているんです。

 

これをちゃんと理解できるようになってから。

私は、完全にひとりで、誰とも違っていて、個の種(しゅ)なんだ、と

うーん、意識がぴしっと立つ、というか、からだの中に一本、柱が立ったみたいな

気持ちになりました。

 

みんな、みんな、みんな、みんな、違う。

 

だからこそ。

共通点が見つかったり、あ、似ている部分がある!とわかった時、

強く嬉しいなぁ!って感じられるようになりました。

 

ずっと昔。

自分と何もかも、ぴしっと合う人がいるはずだ、と信じていました。

でもきっと。

この部分はこの人と、こっちの部分はあの人と、これはこの人と、

分かち合えそうだな・・・・、とすればいいんだと思います。

ひとりですべてを賄うことはできない、のです。

 

そして、傷つくのは自分だけではなくて、自分も誰かを傷つける

可能性があるのだ、と知っておくこと。

 

 

読んで下さってありがとうございます。